立正佼成会 庭野日鑛会長 10月の法話から
10月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
煩悩があるからこそ
大乗仏教には「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。煩悩とは悟りを妨げる働きであり、菩提とは悟りのことです。このように、煩悩と菩提という正反対のことが、「即(そく)」、「即(すなわ)ち」で結ばれて、一つに融合しているわけです。
この意味合いは、全ては真理の現れであり、悟りの実現を邪魔する煩悩も真理の現れにほかならず、悟りの縁となるので、それを離れて別に悟りはない、ということです。
私たちは、自分は煩悩だらけだと思っていますけれども、煩悩があるからこそ仏さまの悟りはどういうものかと一生懸命に精進をさせて頂くのであります。煩悩がなければ、なかなか精進をしようという発心(ほっしん)もしないということです。「煩悩即菩提」をしっかりと心に押さえておきたいと思います。
(10月1日)
私たちの中にある地獄と極楽
あるお坊さんのお話があります。
ある時、地獄と極楽の夢を見たというのです。
はじめに地獄に行ったとのことですが、食卓に山海(さんかい)の珍味が溢(あふ)れんばかりにのっていました。長いお箸(はし)が銘々(めいめい)の前に置いてあり、みんな大喜びで食べようとします。ところがお箸が長くて、自分の口に入りません。1メートルもあったのでしょうか。あまりに長くて、ご馳走(ちそう)がありながら食べられないのです。焦(あせ)れば焦るほど、ますます口に入らず、次第にみんな痩(や)せさらばえていく状態であったと言います。
次に極楽に行きました。ご馳走は、地獄ほどではありませんでしたが、みんな長い箸を持っていても、ふくよかに肥(こ)えていたというのです。どういうわけかと眺(なが)めていると、長い箸を使い、目の前の人の口に食べ物を運んでいたということです。
これは あくまでも譬(たと)え話でありますが、こうしたことが私たちの日常生活にもあります。
私たちは、仏さまの教えを頂いて、読経供養をするとか、いろいろな行(ぎょう)をしますが、それは自己のいのちの尊さを知ることが目的です。いのちの尊さを知ると、天地同根(てんちどうこん)、万物一体(ばんぶついったい)――自分だけで生きているのではなく、人も自然界も、あらゆるものが一つの大きないのちなのだということに気づくことができます。
一人ひとりの人間の自我、エゴが地球全体を汚(けが)す、汚(よご)してしまうわけですが、そういう人間でありながら己の尊厳に気づき、尊いいのちを頂いていることを自覚することができるならば、ものの道理も分かってくるのです。
本当に地獄と極楽の譬えのように、常に私たちは強い自我によって人と争うようなことになってしまうわけであります。
(10月1日)