年頭法話 立正佼成会会長 庭野日鑛

皆共に、日々感謝の心で目覚めて元気で生き生きと精進していこう

横山大観になぞらえて庭野日敬開祖が描いた図の前で

こうしたことを踏まえ、私は「令和五年次の方針」を次のようにお示ししました。

今年(こんねん)、本会はお蔭(かげ)様で、創立八十五周年を迎えました。皆共に、日々(ひび)感謝で目覚め、元気で生き生きと精進して参りましょう。

今年次も新型コロナウイルスの感染状況を見据(す)えつつ、信仰生活を通して、お互い様に、夫婦として、父母として、親として、未来を担(にな)う幼少年・青年達を如何(いか)にして育て、人格の形成をはかるか、如何にして家を斉えていくか、さらに、日本の伝統を受け継いで、如何にして立派な国を打ち立てていくか、創造的に真剣に務めて参りたいと願っています。

昨年もお伝えしましたが、夫婦(若い世代)、父母(壮年の世代)、親(高齢の世代)のそれぞれが、「人を植える(育てる)」という根本命題(こんぽんめいだい)に全力を尽くすことは、本会のみならず、社会や国においても極めて重要です。

また今年次の方針には、「皆共に、日々感謝で目覚め、元気で生き生きと精進して参りましょう」との一文を加えました。

毎朝のご供養の際、「本当に有り難い」「お陰さま」という感謝の気持ちで満たされることは、一日一日を丁寧(ていねい)に、精いっぱい生きていく上での源泉(げんせん)といえます。その積み重ねが充実した人生につながるのであります。

さて、私たち人間にとって、心の持ち方が肝心要(かんじんかなめ)のことであるのはいうまでもありません。自分の心次第で、目の前の現象は、良いほうにも悪いほうにも無限に変化するからです。

だからこそ、常に自分の心を磨(みが)き、調(ととの)えることを欠くことができないのです。

そのことを象徴した法句経(ほっくぎょう)の一節があります。

「おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきて 誰によるべぞ よく調えしおのれにこそ まこと得がたき よるべをぞ獲(え)ん」

「よるべ」とは、頼みにして身を寄せる所、依(よ)りどころのことです。自分の心を調えることによって、自分そのものが、かけがえのない依りどころとなる、ということです。

もちろん仏の教えは、無上(むじょう)の宝です。ただ仏法は、学んで、それを実行して、身につけて初めて、真価(しんか)が得られます。単に学び、知っているという段階でなく、しっかり実践できるところまでいかなければ、本当に学んだことにはなりません。

たとえ自らが煩悩(ぼんのう)にさいなまれようとも、教えに順(したが)って自分をコントロールし、よりふさわしい道を歩むことが、いわば「おのれこそ おのれのよるべ」ということであります。

その意味で、私たちが心を磨いていくには、三つの基本信行(しんぎょう=ご供養、導き・手どり・法座、ご法の習学)はもちろんのこと、聖人(せいじん)と呼ばれる方々の本などを座右(ざゆう)の書として、それを目標・理想にして、自分を築く努力をすることが大事になります。私自身も慣性(かんせい)に流されないよう、仏教のみならず、儒教などあらゆるものから学ぶことを心がけています。

大自然に触れるのも意義深いことです。四季は巡(めぐ)り、木々(きぎ)も草花も、鳥や虫も、毎日変化し、新しくなっていきます。

曹洞宗(そうとうしゅう)大本山・永平寺の貫首をなさり、満百六歳というご長寿であられた宮崎奕保禅師(みやざきえきほぜんじ)は、「真理を黙って実行しているのが大自然である」とおっしゃいました。

私たち人間は、あの人が悪い、世の中が悪いなどと論評をしがちです。しかし本来は、大自然の如(ごと)く、黙って真理を実行していける一人ひとりになることが、救われるもとではないかと思います。

人間の心というものは、単なる生物的、動物的な生活から進化して、何十万年も経(た)って、ようやく人を思いやる、情(じょう)のある心を持つようになったといわれています。

特に「悲しむ」という心は、人間の情緒(じょうちょ)の最も尊い働きの一つであります。自分の親、きょうだい、子供など身内のことばかりでなく、他の人のこと、世の中のこと、世界の国々のことに心を寄せ、共感し、悲しめるようになってこそ文明人であると教えられています。

他の人が困難に直面しているのを見て深く悲しむ――この心こそ、世界を平和にしていく原動力であります。

本会でいえば、人の悲しみに触れ、共に泣き、何とか救われてほしいと一心に願うことから、仏さまの教えをお伝えしたいという心が起こさしめられるのです。そこに、仏さまの慈悲が現れているのだと思います。

法華経の信仰に篤(あつ)い宮沢賢治の言葉に、「永久の未完成これ完成である」とあります。いつまで経っても未完成だという気持ちで人生を生きることが、本当の意味での完成なのだということです。私たちも「もうこれで分かった」ということではなく、「分からない、分からない」と、いつまでも突き詰めて、求道(ぐどう)していくことが肝心であり、それが「心田(しんでん)を耕す」ということにほかなりません。

今年も一年、皆さまと心を磨き合い、日々感謝で目覚め、元気で生き生きと精進をさせて頂きたいと願っています。