立正佼成会 庭野日鑛会長 9月の法話から

9月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

いつも元気に

人間として最も大切なことは、元気であることです。

六波羅蜜(ろくはらみつ)の最初に「布施」が教えられています。布施とは、人に物を施し、恵むことですが、私たちが健康で元気であること、元気で精進ができること、これも大事な布施の一つです。

人さまに施すことに、法施とか財施とか無畏施(むいせ)とかがあります。特に菩薩の修行としては、坐禅をするとか、念仏を唱えるとか、あるいは「南無妙法蓮華経」と唱題をするなどいろいろとあり、それらを大切にするように言われています。けれども、何をするにも、やはり元気で健康でいることが大切で、これも大きな布施行であります。朝から晩までの生活の全てが布施になっている、生活そのものが布施になっているということでは、元気で、健康であることが大きな布施になるわけです。

私たち自身にとっても健康でいることは有り難いですし、人さまに施しができる生活を送れるのは本当に有り難いことです。
(9月1日)

救いは自らの中に

一休禅師のお話です。ある代官が禅師に、「地獄や極楽はあるとかないとか言われますが、どうなんでしょうか」と尋ねました。極楽は「西方(さいほう)浄土」ともいいます。西の空は夕焼けで金色(こんじき)に美しく染まって、まるで極楽のように見えることから、極楽は西にあると当時は信じられていました。

また、東の空が朝、色鮮やかに輝いていることから、極楽は東にあるのではないかとも捉えられていました。そしてまた、お釈迦さまが北枕にして休んでおられたことから、極楽は北にあるとも思われていたようです。これに対して、一休禅師は、このように答えられたといわれます。

「極楽は 西とは言えど 東にも きた道探せば みんなみにある(皆、身にある)」

東西南北をみんな入れて歌をつくったわけですね。西とは言えど、東にも、きた道探せば――きた道とは、北ということですが、来た道探せば、皆、身(南)にあると。音では「みなみにある」ということですが、「みんな身にある」、すなわち、体(からだ)にあると教えられたというのです。

つまり、極楽は自分の体の外にあるのではないということです。

仏教では、私たちの修行次第で極楽にも行く、あるいは地獄にも行くということですが、確かに私たちの身にあるわけです。地獄に行くも、極楽に行くにも、私たちがいかに仏さまのみ教えを体して日頃、生活ができるかどうか、その違いであるわけです。こうした一休禅師のお話は、私たちが日頃、自らを省みるときに、大事なことを教えてくださっています。
(9月1日)

日々の積み重ね

「千里の道も一歩から」ということわざがあります。元は、「千里の行(こう)も足下より始まる」という中国の老子の言葉です。それを、「千里の道も一歩から」と日本的に易しく表現したのです。

私たちもこれから、いろいろなことを人生の中で行っていくわけですが、「今日も一歩」「千里の道も今日から」、その心を大事にしてお互いさまに精進する、努力することが大切です。
(9月7日)

普段から信仰を

病気だから信仰するとか、心の悩みがあるから信仰するということは当然あります。けれども、体に悪いところもない、また日頃の生活に何の不十分もない、その上でなおかつ真剣に行っていくべきものが宗教です。病人がするものだ、悩みのある人がするものだと考えられがちですが、それが信仰というわけではありません。

脇祖さまも当初は、「病気の問屋」と言われるように、たくさんの病気を持っておられました。けれども、それがご法によって治って、真剣に布教伝道されました。病気をした方々が神仏にお願いをすることは、もちろんあり得るわけですが、丈夫な方、また日常の生活に何の苦労もない方が、それでもなおかつ求めていく――そういう深いものこそ宗教です。私たちは、そのこともしっかりと胸に納めて、精進させて頂きましょう。
(9月10日)

真の幸福はどこに

一つの西洋のおとぎ話があります。

昔、栄耀栄華(えいようえいが)の中に暮らしていたある王が、一向に心楽しまず、真の幸福を求めてやまなかった。たまたまある有名な占師(うらないし)が何でも願い事をかなえる道を教えてくれるという評判で、早速王は彼を招いてその幸福を求める道を聞いた。

占師は、「それは簡単なことです。国中を探して、真に自分は幸福であると思っている人間を見つけ出し、その人間の着ている下着を譲ってもらって身につけることです」と、このように教えた。王は大いに喜んで、早速国内くまなくその人間を探させたが誰も彼も不平不満を並べる人間ばかりで、真に自ら満足している人間は見当たらない。

たまたま一人の捜索使が、ある山中の羊飼いの男が悠々(ゆうゆう)として、日々の生活に満足しきっているのを発見して、「何でも望みの品を与えるから、どうかおまえの肌着を譲ってくれ」と頼んだところが、その男は当惑して、上衣の胸をはだけて見せた。何と肌着など着ておらないのである。

王さまのように、いろいろきらびやかなものを着たり、ぜいたくをしたりしている人が喜んでいないのですから、お金があるだけでは人間は本当の喜びは感じられないということです。貧乏でも、羊飼いの男性のように満足して人生を生きる、生きがいを持って生きることができるのです。

私たちの人生が、何が幸せで何が不幸かということは、その人の取りようによっていろいろあります。自分の生きがいを求めて真剣に精進することが、私たちにとっていかに大切であるかが、この話に込められています。
(9月10日)

【次ページ:「平和な国づくりがやがて」「心のセルフチェック」「親の恩」】