年頭法話 立正佼成会会長 庭野日鑛
未来を担う幼少年・青年達を如何にして育て、人格の形成をはかるか
これまで私は、皆さまに、人を植える(育てる)という根本命題(こんぽんめいだい)に全力を尽くしていきたいと申し上げてきました。
その一番の根っこは、家庭での教育です。斉家(せいか=家庭を斉えること)を通して、しっかりした人間教育、躾(しつけ)がなされてこそ、学校など公での教育も充実し、本当の意味で「人を植える」ということに結びつくのであります。
そして、現実に家庭を斉えるには、「ご宝前を中心にした生活」と「三つの実践」(家庭で朝のあいさつをする。人から呼ばれたら「ハイ」とハッキリ返事をする。履物を脱いだらそろえる)が重要であるとお話ししてきました。こうした基本を身につけることで、人間教育の素地ができあがるのです。
また、家庭で青少年育成を進める上で、最も基本的なこととして、親が子供をどう見るかという「児童観」が大事な問題であります。
古来、日本には、子供を神仏からの授かりもの、賜りものとして、畏敬の念を持って迎え、育てる文化がありました。
以前、敬和学園高校(新潟県新潟市)の初代校長であった太田俊雄先生のご本を読ませて頂きました。クリスチャンの太田先生は、幼い頃、病弱で、よくいじめられたそうです。そんな時、お母さんがこう慰めてくださったといいます。
「あんたはな、体が弱いから、気も弱い。だがな、今に見ていなさい。立派に成人して、神さまの宿題をやりとげる日が来る。その日が来るのを信じとるから、お母さんは、ちっとも悲観せぬ。弱い時は、泣かされておればよろしい」
太田先生は、こうしたお母さんの信頼に応えることが、青年期以降の一貫した念願であったと振り返られています。
わが子に「神様の使命がある」と信じ、尊重したお母さんの姿に胸を打たれます。
「親の背を見て子は育つ」といわれるように、良いことも、悪いことも、親のなすことすべてが、子供に影響します。
昔、中国にいた謝安という政治家の逸話があります。教育熱心な奥さんが、「どうしてあなたは、一向に子供を教えようとなさらないのですか」と訊(たず)ねたのに対して、謝安は、こう答えたそうです。「私は、四六時中、子供に教えている。口や手でやらぬだけのことで、体全体で教えているつもりだ」と。口やかましく言ったり、躾だといって手で叩(たた)いたりするのではなく、日常の姿を通して手本を示すことが、子供の教育の基本ということであります。
さらにこんな逸話もあります。戦国武将として知られる細川幽斎(ゆうさい)は、晩年、壮年になった息子が来た時は、くつろいだ態度で接していましたが、幼い孫が来た時には、ちゃんと姿勢を正して会ったそうです。家老(かろう)が理由を聞くと、こう話したといいます。「孫はこれからものになるのじゃから、こちらも敬して会わねばいかんのだ」。
わが家においても、生前、開祖さまは、ご供養の時間から、本部に出かける時間まで、毎日、同じリズムで過ごされていました。私たち子供は、朝夕のご供養に間に合わず、遅れることもありましたが、開祖さまは、いつも決まった時間に始められました。それを、ごく自然になさる姿を見て、「本当に教えを信じているのだ」と心から思いました。開祖さまも、体で教えてくださっていたのだと、いまつくづく思います。
このように、子供の育成といっても、結局は、親の自覚と姿勢が問われているのであります。お互いさま、自らを振り返り、反省をしながら、未来を担う幼少年・青年達に、よりふさわしい後ろ姿を示していきたいものです。