立正佼成会 庭野日鑛会長 12月の法話から

「仏を拝む」意義

私たちのご本尊さまは、このように立派な立像ですが、仏さまの意味合いを分からない人は、偶像崇拝ではないかと見がちです。

仏教では、お参りする対象であるご本尊さまと私たちは一つと教えています。

仏さまがお悟りになったご法は、宇宙の真理であり、最高に尊いものです。また、私たち一人ひとりには「仏性」という、とても尊く、美しい、清らかな心が具(そな)わっています。どのような人にも、言ってみれば善人にも悪人にも心の奥の奥の奥底には、まったく穢(けが)れのない、清らかな心があります。そのことを「如来蔵(にょらいぞう)」と言いますが、そうした清らかな心、そして真理、ご法を、仏像を通して拝んでいるわけです。ですから、決して偶像を拝んでいるわけではありません。

私たちの理想像である仏さまは、ご法を悟られて、人格が円満で、慈悲深いお心の持ち主です。「理想像」ではありますが、「偶像」ではないのです。

私たちは普通、頭(こうべ)を垂(た)れて仏さまを拝むわけですが、一人ひとりに仏性があるということですから、実はそこに自分自身を拝むということがあって初めて、「仏を拝む」と言うことができます。自分の奥の奥の奥深いところにある清らかな心、仏性に気づいた人は、自らの存在をも敬う気持ちを持っています。そのように「仏と自分とは一つ」ということが、私たちの礼拝(らいはい)、拝むことの中に込められているのです。

尊いご本尊があって、一方の私たちは至らない者だから、とにかく頭を垂れて拝む――それは仏教とは違います。「仏と人間が一つ」ということを表すために、合掌礼拝して頭を垂れるわけです。このように仏教は、全てのことを一つのこととして捉えています。
(12月15日)

画・茨木 祥之

即是道場の心で

毎年、信行方針を出しています。一年で徹底するには短すぎるので、三年間くらいは同じ方針でいくことにしていますが、人間は、まったく同じ方針だと飽きてしまうため、新しいものがあった方がいいような感じがします。

来年(令和2年)は、方針の最後のところに「即是道場(そくぜどうじょう)」という言葉を入れさせて頂きました。私たちは、青経巻(『経典』)の最初に「道場観」を読み上げますが、その中にある「この処(ところ)は即(すなわ)ち是(こ)れ道場なり」という一節です。

本会は、在家仏教であります。「道場」というと、つい、大聖堂をはじめ教会、地域道場と思いがちです。しかし、在家仏教では本来、自分が住んでいるところ、居(い)るところ、働いているところが道場である、一番厳しい道場なのだと教えています。ですから、それぞれの場で、いかに仏さまの教えを実践するかが大事になります。

もちろん、大聖堂や教会、地域道場で、人間としての心を鍛(きた)えていくのは大事なことです。お相撲には稽古土俵というものがあって、教会、地域道場はいわばそれに当たります。一番大事な本場所は、家庭であり、職場であり、地域社会。そこで実践することが、在家仏教の本領です。このことを、お互いにしっかり理解してまいりたいと思います。
(12月15日)