立正佼成会 庭野日鑛会長 5月の法話から

画・茨木 祥之

当たり前のことを当たり前に

私は、「佼成会の教えは、言ってみれば簡単だ」と思っています。家庭で朝のあいさつをする、人から呼ばれたら「ハイ」とハッキリ返事をする、履物を脱いだらそろえる、そんな「三つの実践」なども、皆さまに申し上げています。

家を出る時には「行って参ります」、人に会ったら「こんにちは」、そして帰ってくる時は「ただいま」。当たり前のことですが、「行って来ます」ではなくて、「行って参ります」というのが大事なところです。

「参る」とは、仏さまにお参りするのと同じように、「尊いものにお参りをして、何かを得て、学んで、帰って来ます」という意味になりますから、「行って来ます」ではなく、「行って参ります」。このところに、精神性が入ってくるわけです。

そして、人に会うと、「こんにちは」というあいさつをします。一日一日の積み重ねで、人生が成っていますから、「こんにちは(今日は)」も、とても大事なことです。

さらに家に帰って来て、「ただいま」――たったいま、帰って来ました――と言う。「こんにちは」の今日とは、二十四時間でありますが、「ただいま(只今)」は、ほんの一秒もない。それが積み重なって、人生を築いているわけです。

日頃、何の気なしに使っている言葉をしっかりと、はっきりと言うことによって、私たちは「今日」の大切さ、「只今」の大切さも分からせて頂けるのです。

その意味で、私たちが、在家仏教徒として行うことは、本当に当たり前のことです。開祖さまも、「当たり前のことを当たり前にするんだ」と教えてくださっていました。そうした当たり前のことが、当たり前にできて、人と人とが本当に調和を保って平和に生きるということが、大きくは、国の、あるいは世界の平和につながっていきます。私たちの実践は、とても基本的なことです。
(5月1日)

「習学」の意味

法華経の一文に、「習学せざる者は、これを悟り終わることはできない」(「其(そ)の習学せざる者は 此(こ)れを暁了(ぎょうりょう)すること能(あた)わじ」)という言葉がございます。「習学」の一番目の意味は、仏の教えを正しく会得することです。二番目は、それを自分の日常生活の出来事と照らし合わせて考えていくこと。三番目には、このことを絶えず繰り返していくことです。この三つが、習学という文字の教える意味合いです。

習学の「習」という字は、「羽」と「白」と書いてあります(「羽」は鳥の羽、「白」は鳥の胴体を示す象形文字)。これは、小鳥が生まれて、いよいよ巣立ちをする時に、親の真似(まね)をして、羽をバタバタとさせて、飛べるように何回も何回も練習する姿を表しています。ですから、何回も何回も繰り返すことが大事であると教えられているのです。

そういう意味で、私たちは、菩薩として生きていくことを、法華経の全体を通して習学して、菩薩行に挺身(ていしん)していく。人の悩み、苦しみをしっかり捉えて、人さまに喜んで頂けるような菩薩として、生きていくことが大切です。
(5月15日)