バチカンから見た世界(148) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

3宗教間の融和なくして中東和平は実現できない(6)―対話のない戦争―

1月15日、ローマのカトリック大学で新学期の始業式が行われた。その席上、聖都エルサレムのラテン(ローマ)系カトリック教会のピエルバッティスタ・ピッツァバッラ大司教(枢機卿)が講演した。

大司教は、(中東の)学校や大学において、学生たちを「平和と非暴力」に向けて教育し、「信じ合い、知り合い、そして、出会う」ことの重要性を伝えていかなければならないが、「残念ながら、ごく少数のケースを除き、アラブ系、ヘブライ系の双方の学校において実践されていない」と指摘。イスラエル・ハマス間の戦争を「入れば入るほど、出ることが困難となる泥沼、湿地帯」と呼び、「平和が遠いユートピア、内容のない空洞となり、終わりの見えない(政治的)道具化の対象となってしまった」と分析した。

「平和を信じるように」と話した大司教は、「戦争からの癒しには長い期間が必要で、紆余(うよ)曲折があるだろう」と予測。癒しのプロセスにおいて重要なのは、「正義、真理、和解、許しといった言葉が、今までのように単なる願望ではなく、現実の生活の中で、分かち合われた解釈を基盤とし、それなくしては未来を考えることが困難となるような重要性を持たなければならない」ことだと主張する。

しかし現状は、各々(おのおの)が、自身のみがこの残忍な戦争の犠牲者であり、自身の(悲惨な)状況に対する同情のみを要求し、他者に対する理解を、反逆あるいは自身の苦に対する不理解として解釈してしまっている。イスラエルとパレスチナの双方が、戦争の悲惨さに押しひしがれ、自身の殻に閉じこもってしまっているのだ。

ピッツァバッラ大司教はさらに、双方が「憎悪と苦の内に閉じこもる」状況の中で、「相互理解と和解」へ向けて「地平を広げるように」と呼びかけた。さらに、戦争によって引き裂かれた傷痕は、消却されたり、“戦争がない”というだけの平和によって忘れ去られたりしてはならず、「傷痕は治療され、その責任を負い、分析され、分かち合わなければ、犠牲者意識と激怒を増長しながら、何年間どころか数世紀にもわたって苦をもたらし続ける」と語りかけた。

1948年のイスラエル建国以来、中東において間断なく続いた争いによって、イスラエルとパレスチナ双方の間で培われていった憎悪と怨念が癒されないまま、激しい応酬を生み出している。イスラエル・ハマス間戦争はその暴発だ。

中東戦争を人間心理の側面から分析するピッツァバッラ大司教は、大学での講演を通して「平和構築を促進できるような言語を使うように」と、特に政治指導者たちに向けてアピールした。これは、「言うことを考えてから発言するように」との、大司教のメッセージともいえる。

イスラエル・ハマス間戦争や他の戦争において、暴力に満ち、攻撃的で、憎悪、侮辱や拒否、排除に駆られる言語が、主要なる手段として使われているが、こうした「敏感な状況」にあっては、使われる言語が決定的な役割を果たすのだ。そのため大司教は、「公職にある人々は、適切なる言語で共同体に対する指針を出し、マスコミで往々にして使われる、憎悪と不信感を助長するような言語を避けるべき」と強調する。「表現が、虐殺や爆弾にも増して、人々を傷つける」からだ。さらに、イスラエルとパレスチナの主張する「説話」に相関関係がなく、実際に合致しない」という批判も展開した。

中東3大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)の戦争下における状況と役割について説明するピッツァバッラ大司教は、「各々の宗教が、自身の共同体の内部のみで活動しているように見受けられ、ここ数か月間、公共の場で諸宗教対話会議を開くことがほとんど不可能となっている」と報告。「過去、中東においても確立されていた諸宗教間関係が、危険な不信感によって吹き飛ばされたかのように見受けられる」という。各々の宗教が、他宗教によって裏切られ、理解や擁護もなく、支持されていないと感じているからだ。

ユダヤ教徒たちは、キリスト教徒から支持されていないと感じ、キリスト教徒は、あらゆることに関して分裂し、イスラーム教徒たちは、自分たちが攻撃されていると認識しているからだ。こうした状況下にあっては、従来の「欧米型の諸宗教対話」だけでなく、「中東独自の感受性と文化的アプローチを尊重する対話」が必要とされていると力説した。