バチカンから見た世界(94) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

世界からさまざまな民族的、宗教的、文化的アイデンティティーを持った人々が訪問するアヤソフィアは、その歴史の果てに訪れた諸宗教の共存、特にキリスト教とイスラーム間での対話の可能性を現代に示し、政治的利用から切り離されたイスラーム本来の寛容の精神を表してきた。とりわけ2001年の米国同時多発テロ発生後の世界において「文明の衝突」論が浮上し、「イスラーム」を名乗る過激派組織による「宗教を使ってのテロ」が続発する中で、アヤソフィアは、「諸宗教対話による共存」というメッセージを訪れる人々に発してきた。毎年、世界各国から330万人に及ぶ人々が訪れる叡智の殿堂は、2015年に国内の観光地で最も多い訪問客数を記録した。

2006年11月30日にイスタンブールのブルーモスクとアヤソフィアを訪問したローマ教皇ベネディクト十六世(現名誉教皇)は、アヤソフィアの入り口で「私たち(キリスト教徒とイスラーム教徒)の間には違いがあるが、双方とも(同じ)唯一の神の前に立っている。神が私たちに光明を与え、愛と平和への道を見いださせてくださいますように」と記帳した。「なぜ、同じ唯一の神を信じるキリスト教徒とイスラーム教徒が、相克と相殺を繰り返してこなければならなかったのか?」――アヤソフィアが象徴的に発するその問い掛けに対する回答の一つは、昨年2月にアラブ首長国連邦(UAE)アブダビで教皇フランシスコとイスラーム・スンニ派最高権威機関「アズハル」のアハメド・タイエブ総長が共に署名した「人類の友愛に関する文書」に見ることができる。キリスト教とイスラーム間の対話がなされ、「人類の友愛」に発展させようとする諸宗教対話の経緯を目撃していると言える。

しかし、こうした「共存」「友愛」を目指す歩みを無視するかのように、7月10日、トルコ国家評議会(最高行政裁判所)は、アタチュルク初代大統領がアヤソフィアを博物館とした決断を無効とする判断を下した。これを受けてエルドアン現大統領は即刻、「アヤソフィアをモスクとする」との大統領令を公布した。同大統領は、アヤソフィアをモスクとする決断は「トルコの国家主権の問題」として、欧米諸国からの批判をはねつけた。

欧米の世論は、同大統領が中東、アフリカ北岸から欧州に至る広大な地域を支配したオスマン帝国への郷愁を国民に呼び起こし、保守的なイスラーム教徒の支持を得て強権的な政策を推し進めながら、イスラーム圏や中東における主導権を握ろうとしており、アヤソフィアのモスクへの変更も、その一環として見ている。保守的なイスラームを支持基盤にして、欧米キリスト教文明への挑戦という構図をつくろうとしている政治のあり方に疑念を深めてもいる。

エジプトの「ムフティ長評議会」のイブラヒム・ネグム師は、エルドアン大統領によるアヤソフィアのモスクへの変更を「危険な政治的賭け」として批判した。「この決断は、イスラームとムスリムのイメージをこれまで以上に悪化させるものだ。同時に、民主主義と政教分離(世俗主義)を標榜(ひょうぼう)する国家においてイスラーム主義を唱える人々が政権を取ると、(他の)文明、文化と諸宗教に宣戦布告すると受け取らせてしまうものだ」とも語った。諸宗教の真の精神がゆがめられてしまうことへの懸念を表したのだった。

※8月22日、写真を差し替えました。