栄福の時代を目指して(16)〈前編〉 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)
宗教的・倫理的中道――仏教・儒教・ギリシャ哲学
「中道」という概念ににわかに注目が集まっている。これは公明党が重視する理念と解説されていて、立憲民主党では、左右の真ん中が政治的な中道と理解しているようだ。でも「中道」という概念は、それにとどまるものではない。この概念はそもそも仏教の中核にあるものだし、儒教やギリシャ哲学の「中庸」と似た意味を持つからだ。
これらの意味の差を強調する人もいるが、私は統合的に理解できると考えており、この観点から先月に「倫理的中道」という概念を提起した。仏教は宗教的中道思想、儒教とギリシャ哲学は倫理的中道思想と言えるから、宗教的・倫理的中道である。政治的中道は、しばしば「右と左の中間」や「妥協」とみなされやすいが、宗教的・倫理的観点から政治的中道を理解すれば、中道概念はより意味が深いものとなる。これは、宗教的・倫理的にして政治的な中道であり、政治の文脈ではそれを倫理的中道と呼べる。
仏教の中道、儒教の中庸、そしてアリストテレス倫理学における中庸(メソテース)には、文化的背景や形而上学的前提を異にしながらも、驚くほど共通した点がある。いずれも、「中」を単なる平均点や妥協点としてではなく、状況に応じて知恵によって見いだされる最適なあり方として捉えているのである。
まず、仏教の中道は、快楽主義と苦行主義という二つの極端を退け、執着を離れて悟りに至る道として説かれる(『転法輪経』)。これは周知のことだが、さらにいわゆる「琴の弦の教え」(パーリ仏典『増支部』、漢訳『中阿含経』第123経)においては、釈尊が弟子ソーナに対し、琴の弦が「張りすぎず、緩すぎず」ちょうど良い加減でこそ良い音を出すように、修行においても精進のし過ぎ(焦燥・過精進)と怠惰(不精進)とのあいだで、その時々の状態に応じた調整が必要であると説いている。ここから明らかなように、原始仏教における中道とは、快楽と苦行の静的な中間点を意味するのではなく、修行者の心理的・身体的状態に応じて精進の度合いを調整する規範的態度である(中村元など)。すなわち中道とは、状況に即して働く動的な実践的調整原理であり、その都度の知恵が要請されるのである。
同様に、儒教においても中庸は、固定的な中間点や折衷を意味するものではない。『論語』において孔子は、「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」(先進篇)と述べ、行為や感情における過剰と不足のいずれもが徳から外れることを説いている。さらに『礼記』「中庸」冒頭の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂(い)う。発して皆中節なる、これを和と謂う」という定義は、感情や行為が発動する前の均衡状態として「中」を、発動後にそれが過不足なく適切に表現される状態として「和」を説明している。すなわち、『論語』では過不足が倫理的に斥(しりぞ)けられ、『中庸』においては感情の発動と調整の原理として示されているのである。後代にはさらに理論化され、普遍的原理と日常実践の結合(朱子学)や、それを状況に即して働く直観的道徳知(良知:陽明学)として理解された。こうして、「中」は偏りのない状態を、「庸」はそれを日常において適切に用いることを意味し、中庸とは、具体的状況を読み取る知恵によって、時宜にかなった判断を行う徳と理解されている。
したがって、仏教の中道と儒教の中庸はいずれも、極端を排した「穏健主義」や「妥協の倫理」を意味するものではない。むしろそれらは、人間の行為や感情、修行や徳の実践が硬直化し、極端へと傾くことを防ぐために、その時々の状況に即して判断と調整を行う実践的知恵なのである。この意味で、中道と中庸はいずれも、静的で固定的な中央点ではなく、動的な実践的理性や徳の概念として理解されるべきである。
この点を理論的に明確に説明しているのが、アリストテレスである。彼は『ニコマコス倫理学』(第2巻)において、徳を過剰と不足のあいだに成立する中庸として捉えた。ここは、仏教や『論語』と同じである。そして、その中庸は単純な「真ん中」を意味するものではない。何が中庸であるかは、具体的状況の中で、実践的知恵である賢慮(フロネーシス)によって判断される。たとえば勇気の徳は、行き過ぎれば無謀となり、足りなければ臆病となるが、状況に応じて適切な点を賢慮によって見極めることで、はじめて徳として成立する。つまり、中庸は固定された中間点ではなく、判断の働きそのものに内在する。仏教や儒教と同じことが、さらに哲学的に明確に表現されているわけだ。
以上のように、仏教の智慧、儒教の徳、アリストテレスの賢慮といった、異なる言語で語られながらも、中道・中庸とは、具体的状況において知恵によって動的な最適点を見出すという点で一致している。宗教的中道から倫理的中道を経て、政治的中道へと至る一本の概念的連続性を、ここから確認することができる。
※引用は原文とは異なる場合もあります
中道・中庸の科学的実証と政治的中道――幅広い、対ポピュリズム連合
しかも中道・中庸は、古典的思想だけによって裏付けられるものではなくなった。私はポジティブ心理学の方法によって、中庸の徳や人格的強みがウェルビーイング、つまり幸福に寄与することを実証的に明らかにし、昨年夏のポジティブ心理学国際学会(於オーストラリア・ブリスベン)で発表した(第10回参照)。これは、中道・中庸の意義を科学的に実証する国際的フロンティアだ。
この研究では、平均的には、徳の過大や過小よりも、その中間にある点がもっともウェルビーイングが高かった。つまり中道や中庸は幸福につながる傾向があるわけだ。
しかも実際には、10段階の中で、しばしば6や7くらいの徳(自己評価)がもっともウェルビーイングが高いことが多い。これも、アリストテレスの中庸の考え方と一致している。彼は、中庸とはまったくの真ん中ではなく、状況の中で適切な中間点だとしているからだ。
つまり、古くから宗教的・倫理的思想が語ってきた中道や中庸は、新しい心理学的研究によっても、全く同じように人間の幸福に資する徳として裏づけられつつあるのである。
このような観点から見ると、政治的中道を次のように理解することが望ましいだろう。まず中道は、政治的な中間的位置を意味するだけではなく、宗教的・倫理的な徳であり、道だである。よって、中道の立場を積極的に取るということは、美徳や倫理の一環なのである。だからこそ、倫理性が重視され、たとえば「政治への信頼を回復するため、政治資金の透明化を断行」するという「不断の政治改革と選挙制度改革」(第5の柱)が謳(うた)われるわけだ。
次に、これは、単なる左右の真ん中ではなく、状況に応じて賢慮・知恵で判断する左右の中間点ということだ。綱領が示している中道理解は、立憲主義的文脈においては「熟議」としても把握されている。熟議は民主主義に不可欠であり、コミュニタリアニズムにおける中核的要素だ。しかし、熟議が単なる議論の積み重ねにとどまるならば、判断の質は必ずしも保証されない。よって、具体的状況における賢慮や知恵と、それに基づく熟議によって判断することが大切だ。政治的中道は、宗教的・倫理的中道思想における賢慮と熟議の結合によって初めて優れた判断や政策となるのである。
中道改革連合綱領では「最適解を導き出す」とされているが、熟議によって皆で知恵を出し合い、その状況における中道・中庸を見いだすことにより、それは可能になる。よって、左右の単純な真ん中を意味するわけではない。左右両極は中道ではありえないから、通常の政治的位置では、(中道左派から中道右派までを含む)幅広い中道となるだろう。この中で、知恵・賢慮と熟議によって、その時点での「中道」が政策となるわけである。
この中道の考え方は、リベラル・コミュニタリアニズムと一致する。この思想は左右軸では、やはり中道に位置し、中道左派(マイケル・サンデルなど)から中道右派(アミタイ・エツィオーニら)が存在するからだ。
実は、このコミュニタリアニズム的な政治の考え方は、「シヴィック・ヒューマニズム(公民的人文主義)」と言われる政治思想(共和主義)としばしば密接な関係にある。これは、人々が徳に基づいて政治に参加して決めるべきだとする公共的な人間主義(ヒューマニズム)だ。よって、綱領にある「人間主義」と密接に関連するのである。
綱領では「対立を煽(あお)り、分断を深める政治」や「極端主義」という表現でポピュリズムが示されている。幅広い中道や、公共的な人間主義がその防波堤になり得ることは、その倫理性から見て思想的にも確かだろう。よって、中道改革連合の綱領は、倫理性に基づく、幅広い「対ポピュリズム」連合と理解することができる。
※〈後編〉に続きます
プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)など。





