栄福の時代を目指して(16)〈前編〉 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節
「天下分け目の関ヶ原」となるエゴイズム解散――統一教会問題と反倫理的政治
前回、私は「国難の昂進」と題して、現在の日本政治が、上からのポピュリズムと下からのポピュリズムの結合によって、危険な局面に入りつつあることを論じた。外交の失態、経済運営の無責任さ、そして何よりも、政治における倫理性や精神性の空洞化が、国全体を不安定にしていると診断したのである。
その後、1カ月の間で事態は急進展した。高市早苗首相が、年明けに突然、解散総選挙に打って出たからだ。この解散総選挙は、通常の選挙ではない。「国難」における、まさに「天下分け目の関ヶ原の合戦」となる。豊臣か、徳川かという選択のように、平和と民主主義か、戦争と独裁か、という分岐点となるだろう。
野党はもとより、自民党の鈴木俊一幹事長も、政権誕生の立役者・麻生太郎副総裁も知らなかったという。通常国会で予算審議がなされるから、これでは予算成立もできなくなってしまう。この時期はもっとも寒いから、北日本では投票自体が難しい。このため、これまで1月に解散したことはほとんどない(1992年以降初めて)。
このような強引な解散を行った一因は、首相が連立を期待していた国民民主党の態度が不明確だったからとも言われている。より深刻なのは、昨年から週刊誌(『週刊文春』)が旧統一教会問題について、韓国からの文書(TM=トゥルー・マザー=特別報告)に基づいて、自民党との癒着や、高市総裁との関係を報道したからではないかという推測だ。首相は統一教会との深い関係を否定しているが、虚偽だったという疑いが濃くなりかねない。また首相自身について、政治資金をめぐる金銭問題の調査が進んでいる。これらの件が通常国会で野党から追及され、さらに中国からの経済制裁が経済にダメージを与えるようになると、支持率が低下するだろう。
よって、その前に、――安倍晋三元首相の側近だった今井尚哉内閣官房参与らの助言によって――安倍元首相が行ったような抜き打ちで解散を行い、通常国会冒頭での解散をしたというのである。
投票は2月8日とされ、解散(1月23日)から16日後の投開票は、戦後もっとも短い。選挙を通じ議論が行われると、支持率低下の可能性が高まるためと推測されている。これは「究極の自己都合解散」と言われており、「高市早苗の高市早苗による高市早苗のための解散総選挙」(朝日新聞「多事奏論」=高橋純子=1月24日)に他ならないだろう。利己主義的な目的で850億円もかけるわけだ。選挙事務を担う自治体行政も悲鳴をあげている。これも、首相の強引な方針の犠牲者だ。
戦争のたとえを用いれば、首相はわずかな側近と謀議を行い、野党のみならず自民党中枢にすら隠蔽(いんぺい)して、桶狭間の戦いや真珠湾攻撃のような奇襲を行ったのだ。まさしく自分の勝利だけのためだから、政党政治や民主主義という「憲政の常道」を無視している点で邪道と言うほかはない。
よって、この解散には、権謀術数の発想(マキャヴェリズム)が露骨に現れており、前回私が指摘した首相の「エゴイズム」が究極の形で現れている。しかも、裏金議員を43人も公認したので、非倫理性が極限に達している。これは、まさしく反倫理的な解散総選挙と言えるのではないか。
「上からのポピュリズム」による混成型ネオ独裁――大義なき白紙委任解散
この電撃解散は「総理のクーデター」(ジャーナリスト・後藤謙次)とも評されており、前回に書いた通りの政治的危険が如実に現れている。「上からのポピュリズム」と「下からのポピュリズム」の結合による混成型ネオ・ファシズムである。先に「民主主義か、独裁か」と書いたのは、決して誇張ではない。
「解散は首相の専権事項」と言われることがあるが、そもそも憲法には内閣が自由に解散できると明確に定められているわけではない。不信任決議案の可決(あるいは信任決議案の否決)時に解散できるとされているだけだ(憲法69条)。にもかかわらず、疑わしいこの解散方式(7条解散)が常態化しているのは嘆かわしいことだ。それでも、通常の解散では、その理由が明示され、それについて論戦が行われて、国民に信が問われる。
首相は解散報道(1月9日)がなされてから長く沈黙していた上に、19日にようやく記者会見で説明した。ところが、そこで新しく語られたのは「高市早苗が内閣総理大臣でよいのかどうか」を決めてもらうということに尽きていた。中国との紛争については全く言及がなかった。通常は政権を評価することが多い新聞も含めて、メディアや識者が「大義なき冒頭解散」(朝日新聞、1月20日)などと批判するのも当然だ。
深刻なのは、国債急落などの経済的危機への対応である。物価高騰、実質賃金の低下、将来不安の拡大といった生活の危機が現実のものとなっているにもかかわらず、首相はこれらをもたらしたアベノミクスを継承して、積極財政をこの記者会見でも示したのだ。
しかも、さらに恐ろしいのは、信任されたら「大きな政策転換」や「賛否の分かれる大きな」法律案を「力強く」進めると語ったことだ。それなら、その内容が明示されなければならない。ところがその内容については説明がない。
これは、国民に「白紙委任状をくださいと言っているのと一緒」(テレビ朝日「モーニングショー」=玉川徹、1月16日)といった批判が渦巻いた。議会制民主主義の論理を無視していることになるからだろう。本来、民主主義とは、理由と責任を伴った限定的な信託の制度であり、無条件に権力を預ける仕組みではない。説明なき白紙委任を求める解散は、主権者を判断主体ではなく、単なる動員対象へと貶(おとし)める。これは、民主政治の倫理的基盤そのものを掘り崩す。
なぜなら、委任を根拠にして、後で内容を明かし、服従を迫ることになるからだ。契約の際に、契約内容を明かさずにサインを迫るようなものだ。詐欺師に騙(だま)されてこのようなサインをすると身の破滅になりかねない。理性的な人なら誰でも、これはおかしいと思うだろう。
要するにこれは、任期の間における、白紙委任による独裁の論理なのである。首相が自分への信を問うと強調したのは、自民党に人気がなく、自分への人気に賭けたからだろう。これこそまさしく、権力者への拍手喝采によるポピュリズム政治である。自民党という政権政党の中から現れてきた「上からのポピュリズム」そのものなのである。そして、後述する新野党の政策に対抗するため、言を翻して、食料品の消費税率2年間ゼロについて検討を加速するとした。細かい制度や財源も明示されていない上に、検討を加速するというだけで、実施するかどうか全く定かではない。まさしく人気を得るための「減税ポピュリズム」である。
つまり、このような解散は、「上からのポピュリズム」による事実上の独裁への道になりかねない。議会はまだ存在しつつも、実質的にはポピュリズム的独裁を行うことになれば、議会制と独裁の混合による新しい独裁という意味で、「混成型ネオ独裁」と言えよう。
白紙委任によって行おうとしている立法などが右翼的なものであり、戦争への道を開くものであることは間違いない。故に、この選挙は、冒頭に述べた二者択一の「関ヶ原の戦い」であり、嘘やごまかしを見抜かれないために国会の公共的議論を回避して奇襲を行おうとする手法は、倫理的に不正であり邪悪と言わざるを得ない。





