栄福の時代を目指して(12) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

西洋文明の衰退と文明史的転換点

ここで大事なのは、多極化の動向について洞察を持っていることだ。トランプの再選は、アメリカの衰退の結果、生活に苦しむ人々が増えたからであり、関税政策をはじめその乱暴な政策は、結果としてアメリカの衰退を加速するだろう。欧州は「アメリカ帝国」に距離を置きつつ独自の立場を提示しようとしているが、足元が危ない。フランスもイギリスもドイツも政権基盤が危なく、特にフランスとドイツでは極右が伸長している。つまり、分断された西洋文明では、アメリカと欧州の双方が衰退しつつあるのだ。

これこそ、文明論者が長らく指摘してきた「西洋文明の没落」の顕在化だろう。文明論は、これまでのさまざまな文明の盛衰を理論化して、今日の西洋文明もやがては没落に向かうと予想してきた。第1次世界大戦直後に、文明論の起点として、オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落』(1918年)という本を刊行して、大きな衝撃を与えたが、現在の米欧分裂と後退は、「西洋の没落」を連想させる。代表的な文明論的歴史家であるアーノルド・トインビーも、文化的衰退などによる西洋文明の衰退と中国文明の興隆を鋭く予見していた。現代では、歴史人口学者エマニュエル・トッドが、倫理的退廃やネオ・リベラリズムの破綻などによる「西洋の敗北」を指摘している。要するに、今こそ、文明史的転換点なのである。

では、日本はどうすべきなのだろうか。世界史的大転換が起こっている以上、公共哲学の観点から抜本的に考える必要がある。これについては、別の回で改めて述べることにしよう。

僭主的な人間の「不法な欲望」

さて、上記のような見方の基礎の一つが、文明の循環という考え方である。文明論者トインビーは、それぞれの文明は、以前の文明と同じ段階を経て盛衰をしていくとして、哲学的同時代という考え方を提起した。西洋文明の第1次世界大戦は、古代ギリシャのペロポネソス戦争と同じ局面だ、と見抜いたからである。前回に即礼君が直観した歴史的フラクタル構造は、本質的にはこれと同じ洞察だ。では、この物語を続けていこう。

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プラトンの叙述は、続いて「僭主(せんしゅ)政的な人間」に進む。ソクラテスは、欲望に関して、必要性な欲望の中で、「不法な欲望」があることを指摘する。それは、理知的で穏やかな魂の部分が眠っている時に、「獣的で猛々(たけだけ)しい部分が、食物や酒に飽満したうえで、跳びはねては眠りを押しのけて外へ出ようと求め、自分の本能を満足させることを求めるようなときに、起る」「どんなことでも行なってはばかるところがない。すなわち、……人間であれ神であれ動物であれ、誰かまわず交わろうとすることにも、何のためらいも感じない。……要するに、愚かさにも無恥にも何ひとつ不足するところはないのだ」(第9巻、571D)。

こうしてソクラテスは、僭主政的な人間ができるのは、生まれつきの性質や、生活の習いによって「酔っぱらいの特性と、色情的特性と、精神異常的特性とを合わせもつに至ったときなのだ」と語る。そして、その次には「宴会とどんちゃん騒ぎ、飲んで浮かれて遊女を侍らすといったような調子の、あらゆることが始まる」として、「恋の欲情は彼の内なる僭主(独裁者)として君臨しつつ、ありとあらゆる無政府状態と無法状態のうちに生き、恋自身が独裁者であるがゆえに」、「あらゆる恥しらずのことを行なわせるだろうし、そうすることによって自分と自分を取り巻く騒々しい一団を養って行くだろう」というのである(574E)。

この発言を見て、即礼君はぼんやりと、確かにトランプ大統領にもこういう雰囲気はあるのかもしれないという気がしたが、それ以上は深く考えずに、もう少し先まで読み進めてから、本を閉じた。

今日の「不法な欲望」

このソクラテスの言葉を思い出したのは、それから約3カ月後の9月のことである。まず、9月4日、富豪のジェフリー・エプスタイン氏の関わった事件の被害女性ら10人が連邦議会前で記者会見をして政府に資料公開を要求しているという記事を見たが、その時には意味がわからず、気に留めなかった。ところが、9月9日にはテレビでエプスタイン氏の50歳の誕生日にトランプ大統領が送った手紙が、「実在するのではないか」という報道を見た。そこには、女性の体の輪郭を示す絵が描かれていて「毎日が素晴らしい秘密でありますように」という文言とトランプ氏のサインがあるというのだ。トランプ本人は否定していて、報じたメディアを名誉棄損で訴え、100億ドルもの損害賠償を求めているという。どうやらアメリカでは大騒ぎらしい。

「一体、何のことだろうか?」と即令君は怪訝(けげん)に思って調べてみた。エプスタイン氏は、投資コンサルタントで、クリントン元大統領やアンドリュー英王子(被害者からの民事訴訟で和解)など著名人と広い交友があり、ニューヨークやフロリダ、カリブ海のプライベートな島などに豪邸を所有していた。ところが、14歳前後の少女を含む多数の未成年者に、金銭を渡して性的行為を強要したという容疑が持たれて2008年と2019年に逮捕され、拘留中に死亡したという。

問題となっているのは、トランプ大統領の関わりも取り沙汰されていることだ。トランプ氏は社交界でエプスタイン氏と交友があり、フロリダのトランプ邸でもエプスタイン氏が目撃されていたが、トランプ氏は2000年代半ばに絶縁したと述べている。ところが、手紙の実在は疑惑を再燃させるものなので、この事件が大きく報じられたのだった。

当然、反トランプ派は道徳的に大統領に不適格だと批判するが、トランプ支持層はメディアや民主党側の捏造(ねつぞう)だとしている。ただ、支持者の中にももっと全面的に文書を公開すべきだと主張する者もおり、支持層に分裂の可能性もあるという。

「これはアメリカでは大問題のようだが、トランプの関わりの真偽は不明ということか」

そう思ったところ、同じ日に、連邦高裁がトランプ氏に対する巨額賠償(約123億円)の支払いを命じた(9月8日)という報道があることにも気づいた。女性作家(ジーン・キャロル氏)が1990年代半ばに高級百貨店の試着室でトランプから性的暴行を受けたと回顧録で書き、トランプ氏が否定して人格攻撃を繰り返したので、地裁で名誉棄損の判決が出ていて、高裁がトランプの控訴を退けたというのだ。即礼君はあきれながらも、さらに調べてみると、大統領就任直前(1月10日)に、不倫の口止め料をめぐる裁判で、ニューヨークの裁判所が有罪評決を維持しつつも、大統領就任のために無条件で放免するという判決があったこともわかった。

「ということは、トランプのこういった行為を裁判所が認めたということなのか。それなら、エプスタイン事件でも疑惑を持たれても不思議ではないな」

ここで彼の脳裏に、ソクラテスの「不法な欲望」という言葉が稲妻のように閃(ひらめ)いたのだった。

「そう言えば、あの箇所でソクラテスは、獣的で猛々しい部分が本能を満足させるために、誰彼構わず交わろうとする……とか語っていたな。僭主的な人間には、色情的特性と、精神異常的特性があるとも言っていた気がする。宴会と、どんちゃん騒ぎ、飲んで浮かれて遊女を侍らすとか、恋の欲情などとも言っていた記憶がある。

エプスタイン事件で報じられているパーティーとか交友関係は、こんな感じだから、ソクラテスの話した内容の現代版じゃないか? トランプがそこで不法なことをしたかどうかはわからないが、エプスタインがこういったことを主催していたのは確かだろう。となると、そこには、『彼を取り巻く騒々しい一団』がいて、少なくとも一時期はトランプもその一員だったようだ。

――となると、これらから見て、トランプは明らかに「不法な欲望」を持つ僭主政的な人間ということになりそうだ」

即礼君はこの作品と今のアメリカとの対応関係に何度も気づいてきたので、もはや驚愕(きょうがく)はしなかったが、約2400年後の事態を見抜いていたかのようなプラトンの慧眼(けいがん)に改めて目を見張った。

古代ギリシャの僭主とアメリカ政権

「といっても、プラトンがここまで類似の事態を洞察しているということは、おそらく当時のギリシャにこのような僭主がいて、『不法な欲望』という哲学的視角からそれを表現しているのかもしれない。一人か複数人かわからないが、その僭主の振る舞いや周辺の様子がこの作品に刻印されているのだろう。となると、今のアメリカ政権は、当時の僭主が時空を経て蘇ったようなものだ」

「そのようなモデルはいたのだろうか?」

そう思って、生成AI・チャット君に聞いてみると、日本の研究ではほとんどモデルは論じられていないが、海外の古典学研究ではアルキビアデスとの類似が繰り返し指摘されているという。

アルキビアデスは、アテネの政治家・将軍で、ソクラテスを慕う若者としてプラトンの対話編に登場しており、有名な『饗宴』に現れる他、『アルキビアデス』という名前がついている作品すら、真作かどうかは別にして、二つもある(ⅰ)。彼は、実際には僭主になったのではなく、スパルタやペルシアに亡命し、アテネ帰還後もまた追放された。美貌(びぼう)とカリスマ、放縦(ほうしょう)な生活で知られ、享楽的な性格で酒宴・愛欲に耽溺(たんでき)して放蕩(ほうとう)生活を好み、弁舌の才能があって民衆を扇動し、傲慢(ごうまん)・横暴だった。その華やかさのために人気を博して時に「民衆の寵児(ちょうじ)」となるが、野心や背信行為のために激しい反感も買って、最後は民衆から見捨てられたという。

「なるほど、確かに『不法な欲望』を持っていそうだな」

エロース(愛)が主題の『饗宴』の末尾では、酔ったアルキビアデスがソクラテスの対話に乱入し、彼の頌讃(じゅさん)演説を行って「一夜をソクラテスと一緒に寝て過ごしたが、何も起こらず、自分の青春美が侮辱された」というエピソードを語った。彼はソクラテスに心酔していて、美貌で繰り返し誘惑しようとしたが、自制心の権化のようなソクラテスにはまったく通じなかったらしい。

もっとも、多くの研究者は、一人の人物ではなく、複数の人物像を抽象化してプラトンが僭主政的人間の「類型」として提示したと考えているという。

「前に夢で見たトラギアスは、アルキビアデスなのかな? でも、アルキビアデスは哲学者ソクラテスに魅惑されていたようだから、トラギアスとは違う感じもするな。夢は夢だから、歴史との対応など考える必要もないか」

彼の眼には、前回この作品の頁を繰った時に観たビジョン、歴史の繰り返しを表す走馬灯のようなビジョンがまた浮かんできた。するとその中で、古代ギリシャが輝き、プラトンが念頭に置いたらしき僭主たちの茫洋(ぼうよう)とした面影が複数浮かび上がった。その内の一人が、美貌のアルキビアデスのようでもあり、酒宴で酔い、惹かれた人に強引に迫っているようだった。

やがてその幾人かの面影が薄くなってきたと思うと、今度は北米地図が浮かび上がってきて、今のアメリカのところが点灯した。島の豪奢(ごうしゃ)な造りの大邸宅で、若きトランプ氏と思しき人と友人たちが、パーティー・スーツに身を包み、ワイングラスを片手に持ちながら、美しい女性や少女たちに近づいて馴(な)れ馴れしく声をかけ、いつとはなしに幾組かは別室に消えていった。

舞台は暗転していった――アテネはもはや視界から消え、アメリカも薄暗くなって漆黒の闇が迫ってきたのである。

(ⅰ)『アルキビアデスⅠ(大)』(人間の本性について)と『アルキビアデスⅡ(小)』(祈願について)で、プラトンの真作かどうか疑う人もいる(特に二つ目)が、私は思想内容については双方に真作性を感じる。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)など。