内藤麻里子の文芸観察(68)

「ブレイクショット」とは、ビリヤードで最初に打つショットのこと。逢坂冬馬さんの『ブレイクショットの軌跡』(早川書房)は、そのショットと同じ名を持つ1台のSUV車が世に放たれ、ビリヤードでボールが飛び散るがごとくあちこちに移動し、それと共に物語が波及していく。現代の闇をさまよう群像が描かれるのだが、もうダメなのかと思った時、かすかな希望が立ち現れる。それはごく簡単なこと、「善良」を取り戻せばいいのだと教えてくれる。静かに胸を打つ会心作と言えよう。

凝った構成だ。「プロローグ」があり、そこには自動車工場の期間工が登場する。全6章から成る本筋の合間には、中央アフリカ共和国の少年兵の物語「アフリカのホワイトハウス」が挟まれる。これらはブレイクショットの誕生と終焉(しゅうえん)を担う。軸は2人のサッカー少年、霧山修悟と後藤晴斗の成長だ。けれどもまずはその父親たちから描かれていく。それぞれの濃厚な物語が後々有機的に絡み合ってくるが、それが目を見張る手際なのだ。

自動車期間工は、ブレイクショットの組み立て作業中、同僚が車内にボルトを落とすのを見た。規則ではすぐ報告をしなければいけないのに、躊躇(ちゅうちょ)していた。いつボルトのことを言おうかとジレンマを抱えたまま、不穏なプロローグで幕が開く。その車両とは断定できないが、ブレイクショットを買った修悟の父は投資ファンドの副社長で、あることから経営危機に直面し、車を手放すことになる。そうとは知らずその車を買った晴斗の父は、板金工として堅実に働いていたが、思わぬ事故に遭う。サッカーで身を立てようと誓い合った修悟と晴斗の運命は変転していき、いよいよ晴斗が中心の物語が始まる。ブレイクショットという車が不幸を呼び込むのか。2人の真摯(しんし)な誓いはどうなるのか。

不吉な影をまといながら、登場人物たちはSNS、期間工、少年兵、偽装修理、投資熱、LGBTQなどに関する問題が山積する現代社会を歩んでいく。誰かのしたことは、はるか遠くで何かを起こす。生きるとは、周囲の世界だけで完結するわけではないことが巧みに示されていく。そして晴斗は時に影にからめとられながらも、なんとか夢にたどり着こうとする。

欲望が渦巻いて閉塞(へいそく)感いっぱいの世界ではあるが、生きる希望はあることを、どこか明るい筆致で描いていく。人間への信頼があるのか、もしくはそうあってほしいという祈りを込めて書いているのか。いずれにしろ、私たちは大団円に向かってぐんぐん導かれる。そして最後までたどり着いた時、なにやら救われたような気持ちになっていた。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

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