立正佼成会 庭野日鑛会長 4月の法話から

4月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

「まつり」とは

私は田舎に長いこと(6歳から10年間)おりました。お祭りになると普段は食べられないご馳走(ちそう)とか、神楽(かぐら)があって、祭りは楽しいという思いがありました。

「まつり」とは間(ま)を結ぶこと、間をつり寄せること。私たちは仏教徒ですから、仏さまとの間を結ぶ、間をつり寄せる、仏さまと同じようにしていくことが大事だと言われています。間があり過ぎると「間抜け」になってしまいます。親子の間でも世代の違いなどで隔たりができて、間が抜けて対話もないというようなこともあります。

私たちは仏さまの教えを頂いても、なかなか悟りに近づけないと思いがちです。しかし、お釈迦さまの教えと間をつっていくと、だんだん救われていることが分かってくるということです。

人間は皆、ご法を理解する力を持っています。仏さまがどういう教えを説かれたかは、文字を通してでも分かります。「分かる」とは、仏さまの教えを理解して仏さまと同じ気持ちになる、心になるということです。それだけで本来は、仏と同じ境地に行くことができる。人間とは、一人ひとりがそういう存在なのです。

神さま、仏さまとの間をつらないで、わがままをしているからなかなか「まつり」にならない。神さま、仏さまと同じような境地になかなか至れない。そういう意味が、「まつり」の中にあるのだということであります。

説法にもありましたように、母のような心、仏さまの慈しみの心、いたわりの心をしっかりと自分のものにしていくことが、仏さまとの間がつれる、仏さまになるということです。それらは本来、もうすでに持っているものですから、それに気づくこともまた、間をつる、つり寄せることの一つであると受け取らせて頂いています。
(4月1日)

あの世もこの世も

世の中には、学んでも学んでも、分からないことがたくさんあります。一般的に、死んでから赴(おもむ)くあの世が霊界だと言われていますが、私は、不思議なことのたくさんあるこの世も霊界だと思うのです。

こうして眺めさせて頂くと、大勢の方がここに集まっておられます。これだけ大勢の方が一堂に集まっていることも、不思議です。

この世もあの世も含めると一大霊界になります。今、私たちの住んでいる所が、もう霊界であり、一大霊界であります。分からないこと、不思議なことのたくさんある霊界に、私たちは今生きているという感じがしてならないのです。
(4月1日)

教えに遇う尊さを伝えよう

釈尊は、縁起の理(ことわり)、すなわち道理を示し、この世の全てのものは互いに関わって存在していると説いています。この道理に思いを致すとき、全てのいのちは生きているのではなく、生かされているのだと気づかされます。だから、自らのいのちを粗末にすることは、他のいのちを蔑(ないがし)ろにしたことになります。反対に、自らの尊さに目覚めることによって、他の尊さにも目覚め、共に生きる世界も開かれてくるのです。

「花まつり」の日を迎えるにあたり、生かされて生きるいのちの尊さに目覚め、尊いいのちを拝み合って、共に生きる安らぎの世界を開くため、仏の教えに遇(あ)うことの大切さを現代に広めていきたいものであります。私たちは手を携えて、いのちの尊さに目覚め合い、その心を次の世代に伝える好機にしていきたいと、願っているわけであります。
(4月8日)

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