バチカンから見た世界(150) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

性差別なく普遍の救いを説くローマ教皇と法華経

バチカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロ作の「最後の審判」では、審判を下す神が“男性”として描かれている。このように、アブラハム信仰(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)では、カトリック教会も含めて、人間を男女に区別し、結婚を男女間での契りとして解釈する傾向を強くしてきた。

旧約聖書の創世記には、神が人間を自身の似姿として「男と女に創造された」との記述もあり、カトリック教会内部では同性愛者たちが非難され、種々の教会行事から排除されてきた。ところが、ローマ教皇フランシスコは2013年、ブラジル訪問からの帰路の機上で報道関係者と懇談した際、「神を探す同性愛者を非難する私は、誰なのか」(罪人である私には非難できない)と発言し、彼らをカトリック教会から排除しない意向を表明した。

バチカン教理省は23年12月18日、教皇認可の下、同性愛者のカップルに対する「祝福」を可能とする宣言文「フィドゥチァ・スプリカンス」を公表した。この宣言文は、同性愛に関するカトリック教会の見解を「教会法によって変えたり、また、結婚に関する伝統的(男女間)な教えを修正したりすることもなく」、あくまでも、同性愛者であっても神を求める人々に対して教会の門戸を閉ざしてはならないという、「司牧的」(指導方針)な配慮から公表されたもの。宣言文の序文には、「神による最も大きな祝福は、最も大きな贈り物としての彼の子、キリストである。全人類のための祝福であり、全ての人間を救った祝福のことだ。キリストは、父なる神が、いまだ罪人であった私たちを祝福するために遣わされた永久の言葉だった」と記されている。

神による祝福は、神によって同じように創造された、同性愛者をも含む全人類に向けられたものであり、罪人、あるいは、カトリック教会の教えに合致しないからといって、門戸を閉ざしてはならないのだ。罪人、イレギュラー (変則)であるからこそ、より救いを必要としているといえる。浄土真宗の宗祖とされる親鸞聖人の教え「悪人往生」にも抵触するようなローマ教皇の指導方針だ。

今年の2月に刊行されたイタリアのカトリック週刊誌「Credere(信仰)」が掲載したインタビュー記事の中で教皇は、「皆、皆、皆」と3度も強調しながら、カトリック教会の司牧使命の根幹が「受け入れの原則にある」と促した。「私が祝福するのは、同性愛者の結婚ではなく、愛し合う2人の人間を祝福するのであって、2人に『私のために祈って下さい(教皇があらゆる行事の終わりに発する嘆願)』と願うこともいとわない」とも発言。「祝福は、洗礼を受けた者であれば、誰に対しても拒否されてはならない」のだと強調した。

カトリック教会内部での「同性愛者の祝福問題」と並行し、米国の宗教通信社「レリジョン・ニュース・サービス(religionnews.com)」は1月5日、『法華経、3世紀に編纂(へんさん)された古代仏教経典が今日においても重要性を有する』と題する記事を掲載し、「法華経が性的アイデンティティーに対して宗教的基盤を与える」と報じた。その記事の要旨は、初期仏教において女性が成仏することは非常に難しいとされ、いったん男性になる(変成男子=へんじょうなんし)ことによって、成仏できるようになると説いてきたが、法華経は、その伝統的な教えを根底から覆す、全ての人間には「普遍的仏性」があるという画期的な教えを説いたというのだ。性別を超え、普遍的な人間の平等観を確立するものであり、ローマ教皇の説く「皆」という普遍的救済論に非常に接近してくる。

レリジョン・ニュース・サービスは、法華経が女性も男性と同じように成仏できるという教えの例示として、「提婆達多品(だいばだったほん)」で展開される「竜女成仏」の説話を紹介。わずか8歳の畜身である幼女が一瞬にして変成男子を遂げ、成仏し、法華経を説くようになるのだ。同通信社はさらに、仏教の教えは、性別(ジェンダー)の問題に関して「流動的」であると指摘し、教えを聴く人の状況に応じて(方便)、男性となったり、女性となったりする「観音菩薩」を例に挙げた。さらに、「歴史仏の釈迦牟尼」は男性だが、「仏教徒たちは、歴史の中には他の何人もの仏陀(ブッダ)が存在してきたと信じている」とし、それらの仏陀が持つ三十二相にも言及しながら、「馬陰蔵相」(めおんぞうそう/馬のように男根が体内に密蔵されている)についても記述している。

多くの内的、外的な制約を背負って生きる現代人。そうした制約を含めて、あらゆる人間の解放と救いを求める二つの普遍宗教の間における対話の接点が、ここにもある。