大聖堂で「脇祖さま報恩会」 慈悲の生涯を偲ぶ(動画あり)

「脇祖さま報恩会」が大聖堂はじめ、各教会で挙行された

庭野日敬開祖と共に立正佼成会の礎を築き、会員から慈母と慕われた長沼妙佼脇祖の祥月命日にあたる9月10日、「脇祖さま報恩会」が、大聖堂(東京・杉並区)と全国各教会で挙行された。大聖堂には会員約1000人が参集したほか、式典の模様がオンライン配信(会員限定)された。

長沼脇祖は、1889年、埼玉県で生まれた。病弱だった長沼脇祖が、庭野開祖に導かれ、法華経に出遇(であ)うと、人生が一変。1938年3月5日に庭野開祖と共に本会を創立し、人を救わずにはおられないとの信念で、会員の幸せのために身を惜しまず慈悲喜捨を尽くし、常に自身を省みながら、菩薩道を歩んだ。

当日の様子(クリックして動画再生)

今夏は記録的な猛暑が続いたが、57年夏、病床にあった長沼脇祖は、機関誌「佼成」で次のような法話を述べている。

「今年の夏は特にきびしかったように感じました。(中略)けれども今年の夏は考えてみますと、東京は雨が多かったので暑い期間は、むしろ短かった筈でございます。実は自分が弱かったために、ついとらわれて暑い暑いと思っていたのだと、反省いたしたような次第でございます」

長沼脇祖は、同年9月10日、67歳で遷化した。2000年には、その慈悲の生涯を讃(たた)え、庭野日鑛会長から「脇祖妙佼慈道菩薩」の法号が贈られた。

大聖堂には約1000人が参集。長沼脇祖を偲び、読経供養を行った

式典は、佼成箏曲部の演奏でしめやかに開幕した。在りし日の長沼脇祖の法話と写真を収めた映像の上映に続き、読経供養を厳修。導師をつとめた庭野光祥次代会長が、庭野会長の「報恩讃歎(さんだん)文」を奏上した。次いで、山中快之中部教区長が体験説法を行った。

この中で、山中教区長は、大学時代に脇谷昌男四日市教会長(当時)の家に住み込みで修行し、脇谷教会長の法華経への「信」と救いに徹する「慈悲深さ」を学んだと述懐。その2年後、脇谷教会長の助言により、父親は5代目萬古焼窯元を辞すことを、自身は本会学林本科に進むことを決断した。学林では、担当講師との触れ合いにより、親の思いが心に染み、親への感謝が湧き起こったと吐露した。

その後、秘書グループ次長を務めた際の体験を披歴。庭野会長のご供養要具を新幹線に忘れ、申し訳なさで苦悩していることを庭野会長に打ち明けると、かけられた言葉によって自身の心が包まれ、安らぎに導かれ、落ち込んだ心が精進への意欲に転ずる不思議を味わったと話した。

さらに、今年7月、大病を患った母親から、「病気になったのが、おまえたちでなくて本当に良かった」と言われ、自分より子供を案ずる親心の有り難さが湧くとともに、庭野開祖を敬い、佼成会の教えを携えて山中家に嫁いだ母の半生を思い起こしたと語った。

その上で、報恩会にあたり、「謙虚」に「陰徳を積み、菩薩行に励む」姿勢を基に、「己の心田を耕す」ことと「仏性礼拝行(らいはいぎょう)」を胸に刻み、修行を続けると誓った。

法話を述べる庭野会長

この後、庭野会長が法話に立った。山中教区長の体験説法に触れ、信仰熱心だった人々を懐かしむとともに、長沼脇祖との思い出を語り、諸先輩の導きに「ただただ感謝するしかない」と語った。

また、慈雲尊者や北畠親房の言葉を紹介しながら、今日の日を、真新しい一日として大事に過ごすことの意義を説いた。「念」という字は「今」の「心」と書くと説明し、一日一日を大事に生きていくとは、「念を入れて生きる」ことであると強調。「今、目の前にいる人、目の前にあることを、大事にして生きていくことに尽きる」と述べた。

さらに、釈尊の「人間の一生は一刹那」という教えに言及。「一刹那」とはほんの一瞬であり、「今が過去になり、未来になります。今、この一瞬に心を込めずに、いつ、誰に対して心を込めることができるのか」と教えられていると示し、過去にとらわれず、未来を願わず、一日一日を一生懸命に生きていこうと心を正して、精進することが大切と説いた。

長沼脇祖に思いを馳せ、日々の精進を誓う

式典に参加した女性会員(84)は「19歳で大病を患い、10年の命と言われた時、夢枕に脇祖さまが立たれ、『お経をあげるんだよ』とお言葉をくださったことを思い出しました。それから毎日、三部経をあげて、寿命の増益(ぞうやく)を頂きました。医師からは、みんなの祈りの賜物(たまもの)と言われ、脇祖さまが人の思いの深さ、お経をあげることの大切さを伝えてくださったと思いました」とかみしめた。

支部長の女性(75)は「脇祖さまのような慈悲の人になるために、修行精進を続けたいと思います」と語った。