バチカンから見た世界(123) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

ポーランド人教皇ヨハネ・パウロ二世の盟友が逝去

小生(記者)は1998年、「バチカン東方政策」(オーストポリティク)の立役者であったアゴスティーノ・カザローリ枢機卿に同市国内でインタビューした。カザローリ枢機卿は、1979年から90年までバチカン国務長官を務め、その間、旧ソ連や東欧共産圏諸国で無神論によって迫害されるカトリック教会に、最小限の信教の自由を保障するため、各国政府との折衝を展開していった人物だ。ハンガリーをはじめとして、旧ソ連やポーランド政府との合意を成立させていった。1975年にフィンランドの首都ヘルシンキで開催された全欧安全保障協力会議(CSCE)においてまとめられた最終文書「ヘルシンキ宣言」に、欧州大陸での安全保障や経済協力だけではなく、「信教の自由と人権」を挿入させることにも成功した。

記者がカザローリ枢機卿に尋ねたかったのは、1988年6月に、ポーランド人教皇ヨハネ・パウロ二世とゴルバチョフ・ソ連最高会議議長との会見の可能性を探るためにモスクワに派遣され、同議長との会見を果たした、その当時の状況と懇談内容についてであった。

カザローリ枢機卿は記者の質問に対し、ロシアへのキリスト教導入の意義を高く評価する「ロシア正教受洗千年祭」への参加を名目に、ゴルバチョフ議長宛ての教皇親書を携えてモスクワを訪問していたが、「議長に会えるかどうかは分からなった」と当時を回顧した。「ペレストロイカ(旧ソ連の改革)については知っていたが、ゴルバチョフ議長についてはほとんど知らなかった」とも述懐した。

同議長やシェワルナゼ外相との会見は、千年祭の取材のためにモスクワに来ていたイタリア共産党機関紙「ウニタ」のバチカン記者(故アルチェステ・サンティーニ氏)がソ連共産党と折衝し、千年祭の最終日に実現した。カザローリ枢機卿はゴルバチョフ議長を「実際の年齢よりは若々しく、知的な印象を与える人物」と話した。バチカン国務長官として教皇からの親書を手渡すと、「後で読みます」と応え、懇談を続けていくことを優先したという。話題は、ソ連領土内のカトリック教会の問題や、1940年のソ連によるバルト3国への「侵攻」の問題にも及んだ。「会話が温かく、敬意のこもったものとなり」、「知的で誠実」なゴルバチョフから、バチカン外交の最高責任者が「ポジティブな印象を受けた」のだ。「また会いましょう」という枢機卿の言葉にゴルバチョフ議長は「もちろん」と応え、会談は終わった。

「(赤い国から来た)教皇ヨハネ・パウロ二世の方が東欧の状況をよく知っていたので、1980年代に私はたいしたことはしなかった」と記者に語ったカザローリ枢機卿は、それから1カ月後にローマ市内の病院で亡くなった。