東日本大震災「一食三県支援」の現場から 絆をつむぎ支え合う人々(1)

昨年11月に行われた鮎川港まちづくり協議会による試食会

東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島の3県では、各地域で住民たちが復興に向けた取り組みを進めている。また、東京電力福島第一原子力発電所の事故により、他府県で暮らす福島からの避難者を支える活動も行われている。立正佼成会一食(いちじき)平和基金では、「東日本大震災三県支援」として、地域の課題の解決や地元のニーズに沿った活動を展開している民間組織や住民組織、NPO法人などをサポートしてきた。震災から6年を迎え、復興に取り組む3団体の活動を紹介する。第1回は、宮城・石巻市の「鮎川港まちづくり協議会」。

宮城県 鮎川港まちづくり協議会

「牡鹿(おしか)ブランドを立ち上げたいのです」。鮎川港まちづくり協議会の齋藤富嗣会長は、そう意気込む。同協議会は、東日本大震災で壊滅した港町の復活を、新鮮な海産物やその料理のブランド化によって実現したいと活動を続けている。

宮城県のJR石巻駅から路線バスに揺られること1時間半。太平洋に突き出た牡鹿半島の先端のほど近くに鮎川港はある。鮎川港は明治時代から「捕鯨の中心地」として栄え、震災前は漁業のほか、東奥三大霊場の一つに数えられる島・金華山に渡る玄関口として観光客でにぎわいを見せた。

仮設商店街「おしかのれん街」

しかし、震災で一変した。太平洋の震源から130キロメートルの鮎川港一帯には高さ8.6メートル以上の津波が押し寄せ、地盤沈下は1.2メートルを記録し、街は瓦礫(がれき)の山と化した。港は以前よりも船の出港数を減らして使えるようになったが、沿岸は6年経った今も防潮工事が続いている。

2019年に地元の産業の拠点として、飲食の店舗などが入る復興施設が新設されるが、完成は当初の計画より大幅に遅れた。こうした事態に、「住民は復興事業に不安を抱えている」と石巻市牡鹿稲井商工会の遠藤忠晴さんは話す。津波で牡鹿地区の99%の店が流失し、仮設商店街に身を寄せる経営者の中には、「仮設が無くなったら店を閉めよう」と考えている人は少なくない。

困難な状況の中、住民主導で懸命に復興に取り組むのが鮎川港まちづくり協議会だ。石巻市の提案を受けた地元の民宿や飲食店の経営者らが中心となり、震災から2年後の13年に設立された。「以前の活気を取り戻す」。それが協議会設立に集ったメンバー全員の願いだ。

特産のホヤを使ったみそが塗られたパイ生地にクリームチーズを添えたスイーツ

鮎川港は、石巻市中心部から離れているため、多くの人に足を運んでもらうには魅力が必要になる。同協議会では、メンバーそれぞれの生活再建も進めなければならない厳しい状況の中、改めて地元の良さについて検討を重ねた。ここでしか得られない新鮮な海産物を使った料理や土産品を考案し、「牡鹿ブランド」としてPRしていくことに決めた。
昨年、専門家を招いて、地元食材を使った創作料理を考察し、盛り付け方やPR方法を学ぶ研究会が行われた。11月には研究会の集大成として、行政やマスコミ、観光業界関係者を招き、試食会を実施。新鮮なカキやホヤを使ったピザやデザートなどを振る舞い、参加者から好評を得た。外部の人に土地の魅力を伝えられたことで、地元の人々の活力にもつながったという。

鮎川港まちづくり協議会の齋藤富嗣会長

同協議会の齋藤会長は、「私たちは“被災者”として、いつまでも下を向いてはいられません。多くの人々に支援して頂き、自立するきっかけを頂いたのですから、しっかりと自分の足で前に進んでいかなければと思うのです。そして、その姿を、実際に足を運んで頂いた多くの方に、おいしいものを食べて、現地の人々に触れて、感じて頂きたいのです」と、瞳を輝かせた。