【舞台女優・神田さち子さん】声なき声を伝える――中国残留婦人の生涯を演じ続けて
1931年の満州事変以降、農村開拓と軍事的役割を担うため、国策として27万人ともいわれる日本人が満州(中国東北部)へ渡った。その後、敗戦に伴う混乱の中、帰国がかなわず、生きるために現地の男性と結婚した「中国残留婦人」がいた。女優の神田さち子さんは、彼女たちの半生を描いたひとり芝居「帰ってきたおばあさん」を演じ続けて22年になる。舞台に込めた思いを聞いた。
戦争に翻弄された女性たち
――中国残留婦人の生涯を演じ始めるようになった経緯は?
1996年の初秋のことです。中国残留婦人の生涯をノンフィクション小説『忘れられた人びと』(新風舎)として書かれた作家の良永勢伊子さんから、残留婦人の方々が一時帰国していると知らされ、彼女たちとの交流会に誘われたのがきっかけでした。
交流会で、私は60代ぐらいの方と出会いました。花柄の質素なブラウスが印象的な方でした。彼女は広島で印刷業を営む両親の元に生まれ、地元の女学校を卒業後、家族で満州に渡ったと話されました。しばらくは幸せな生活が続いたものの、第二次世界大戦が始まり、やがて1945年8月に突如、ソ連軍が満州に侵攻してきました。住民を守るはずだった日本軍は民間人を残して撤退し、女性の一家は逃げたのですが、両親、兄、妹を失ったそうです。
そうした身の上を話している最中、彼女はふと一人の男性に視線を向けてこうつぶやきました。「あそこにいる男が、四番目の夫です」。そして、「四番目の夫だといっても、愛情なんてありませんよ」と、顔色一つ変えず続けました。彼女は、結婚でもらえるわずかな支度金をためるために、結婚を繰り返したと言います。そのお金で家族の遺骨を集め、故郷の広島にお墓を建てることが夢だとおっしゃっていました。
実は私も、満州の撫順(ぶじゅん)生まれです。父は南満州鉄道の関連会社に勤め、母は教師。両親と兄の四人家族で暮らしていました。ところが、敗戦を機に収容所での生活が始まります。満州から南へ南へと収容所を渡り歩き、中国の港湾都市・葫蘆(ころ)にたどり着いた後、京都・舞鶴への引き揚げ船に乗ることができ、ようやく帰国できたと聞いています。当時、私は2歳。おぼろげながら、ひもじい思いをしたことを記憶しています。
私たち家族は全員無事に帰国しました。しかし、残留婦人の方々のお話を聴いて思ったのです。もし途中で家族と生き別れたらどうなっていただろうかと。母はこの場にいるおばあさんたちと同じ境遇になり、私自身も残留孤児になっていたかもしれません。
戦争に翻弄(ほんろう)された目の前のおばあさんの人生を思うと、決して人ごとのように思えませんでした。彼女たちの行き場のない怒り、無念さ――そうした声なき声を伝えなければと強く思いました。そして、交流会へと私を誘ってくださった作家の良永さんが脚本を書かれ、ひとり芝居「帰ってきたおばあさん」が生まれました。