【特別インタビュー 第39回庭野平和賞受賞者 マイケル・ラプスレー師】 傷ついた人々を癒す――自身の悲劇をきっかけに「治癒者」として

南アフリカと日本をインターネットで結び行われたインタビュー。ラプスレー師は、傷ついた人々を救う宗教者の役割を説いた

南アフリカの聖公会司祭で、今年「第39回庭野平和賞」を受賞したマイケル・ラプスレー師(73)へのインタビューがこのほど、リモートで行われた。インタビュアーは、庭野平和財団の庭野浩士理事長(選名・統弘)が務めた。同師は1973年、「アパルトヘイト(人種隔離)」政策下の南アフリカに派遣された。反アパルトヘイト運動に身を投じていた90年、南アフリカ政府の仕業とされる手紙爆弾で両手と右目を失った。この壮絶な体験を経て同師は、暴力や差別で傷ついた人々を癒(いや)す「記憶の癒し」ワークショップを開始。その活動は海外にも広がっている。『傷ついた人々を癒す』をテーマに行われたインタビューの内容を紹介する。(文中敬称略)

両手と右目を失って……

庭野 ラプスレー師は1973年に司祭になり、南アフリカに派遣されました。アパルトヘイト政策下の南アフリカはどんな状況だったのですか。

ラプスレー 当時の南アフリカでは、少数派の白人が優位に立ち、有色人種、特に最も人口が多い黒人は居住地を制限され、教育も受けられず、差別によって過酷な状況に置かれていました。私は赴任する前、差別があるとしても、社会には「抑圧する側」と「抑圧される側」、そして、私が属するであろう多数の「一般の人々」が存在していると考えていました。しかし、実際には「一般の人々」という存在は許されず、肌の色で「抑圧する側」と「抑圧される側」に二分された社会だったのです。白人である私は到着するや否や、自動的に抑圧する側に組み込まれていました。

全ての人が神の子であると教えられて育った私にとって、その政策は受け入れられないもので、大きな怒りを覚えました。私は神を崇拝することと正義を実現することは表裏一体と考えていましたから、アパルトヘイトの反対運動に取り組んだ動機の一つに、信仰の影響があったのは確かです。

ただ、それだけではありません。私は南アフリカで「人間」であることを許されず、「白人」という抑圧者に成り代わったわけですが、その状態が耐えがたいものだったのです。差別されている人の権利を回復する闘争に携わったのは、私自身の人間性を取り戻すためでもあったのです。

庭野 ラプスレー師は南アフリカを国外追放になった後も、反アパルトヘイト運動を続けられていましたが、1990年、手紙に仕掛けられた爆弾で両手と右目を失うことになります。この壮絶な体験は、人生にどのような影響を与えましたか。

ラプスレー 私は両手と右目を失って、できていたことができなくなり、しばらくは「死んだ方がましだ」と思うほど、悲しみでいっぱいでした。それを癒してくれたのは、多くの人からの心ある励まし、愛にあふれた祈りの言葉でした。

爆弾の被害に遭うまでの14年間、私はアフリカに暮らしながら、反アパルトヘイト運動の一環として世界各地で講演していました。ですから、大けがをした私の元には、世界各地の友人、知人から激励のメッセージがたくさん届いたのです。私は大いに励まされ、生きる希望を得ることができました。神が与えてくれた救いだと感じました。

アパルトヘイト政策の下では、家族を亡くした人が大勢います。私は自身の体験を通して、かけがえのないものを失って深い悲しみを抱える人の気持ちが理解できるようになりました。しかし、彼らに耳を傾け、愛の言葉をかける人は多くはありません。

私は悲劇に直面しましたが、多くの人のおかげで過去にとらわれることなく、生きる意味を見いだすことができました。今度は私がアパルトヘイトで傷ついた人々の苦しみ、悲しみに耳を傾けるとともに、「あなたたちは神の子であり、優れた価値ある存在なのです」と伝えたいと思ったのです。反アパルトヘイト運動を展開する「自由の闘士」から「治癒者」の役割を果たしたいと決意できたのは、神の呼びかけによるものと受けとめています。

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