法燈継承30年(2) 会長就任10年~20年の庭野会長の歩み
庭野会長の法話から
和
いま、世界情勢の上からも、「和」ということを非常に大事にしなければならないときではないかと感ずるのであります。(中略)私たちは、ただ単に対立関係の発想、相対的な発想の中で、なかなか本当の意味での「和」ということが実現できません。しかし、宗教的な立場に立って、いのちの根源は一つであるということに気づくことを通して、「和」というものを取り戻すことができるのです。日本では、聖徳太子が『和を以て貴しと為す』とおっしゃっているわけであります。その精神というものは、日本だけでなく、いまの世界全体にとって大事なことであると受け取らせて頂き、年頭誓願文にも申し述べさせて頂いた次第であります。今年は、この「和」ということを、私たちが本当に真剣になって追求し、また把握をして、世界に向けて「和」の大切さを大いに伝道していかなければならないと思います。
(03年1月1日、初詣り式典)
斉家
「ぬくもりのある家庭」とはどういうことなのでしょう。昔から、子供たちがわが家に帰るとは、お母さんのところへ帰るということを意味したといわれます。ですから、現代人の家庭を考えたときに、果たして子供が「お母さんがいるから早く帰りたい」という気持ちで帰っているかが、一つの大きな問題です。森信三先生がおっしゃっていたことですが、お母さんは単なる家族の一員ではない、と。子供たちにとってはすべてだ、と。ですからお母さんは、昔から家庭の太陽である、といわれてきたわけであります。家庭を斉えることの中心は、母親が仏さまの教えを体して、太陽のような家庭を築いていかれることです。「お母さんのところに早く帰りたい」といわれる家庭を目指していくことが、「斉家」ということの成果が上がる最も大事なところだと思っているのです。
(04年1月10日、脇祖さまご命日)
三つの実践
人間関係をよくする根本は、お互いの尊いいのちを見つめ、合掌・礼拝(らいはい)し合って、調和して生きていこうとすること――それが仏さまの教えです。そうは申しましても、現実はなかなかうまくいかないものです。教会では相手にサンゲします、と言っておきながら、家に帰って顔を合わせると言えなくなってしまう、というようなこともあります。その意味では、「三つの実践」(家庭で朝のあいさつをする。人から呼ばれたら「ハイ」とハッキリ返事をする。席を立ったら必ず椅子を入れ、履物を脱いだらそろえる)をさせて頂くことが非常に大事となります。人間には、何より心が大事だといわれておりますが、実際には体、口もあります。やはり心・体・口の三つをととのえることが、人間として一番大事なことのようであります。心というのは、なかなか目に見えません。感謝しているといっても、その心を直接見せることはできません。身で、態度で表すしかないのです。それは、形だけの、口だけのものと思われがちですが、形をととのえると心も段々と通じてくるのです。全国各地を回っておりますと、離婚寸前のご夫婦が、「三つの実践」をしただけで、まるく収まったという話をたくさん伺います。これは実践された方ならば、皆お分かりのことだと思います。「三つの実践」は、何でもない、簡単なことのような感じがいたしますが、本当に大きな力があるのであります。
(04年7月19日、旭川教会ご巡教)
合掌礼拝
開祖さまは、人にお会いするとき、いつも合掌礼拝しておられました。これは、法華経に説かれております「私はあなたを軽んじません」という常不軽菩薩の精神が込められていたのだと思います。私たちは皆、仏の子であり、仏性を持っていると教えられています。自らのいのちを尊く感じられる人は、人さまのいのちもまた尊く感じることができます。ですから、常不軽菩薩さまのように、人に会えば「あなたを軽んじません」といって合掌されたということは、ご自分のいのちの尊さを本当に分かっておられたからこそ、また人さまを合掌礼拝されたわけであります。仏さまには合掌できるけれども、人さまをなかなか合掌できないという人がいるとすれば、それは自分のいのちにも合掌できない、自分のいのちの尊さにも気づけないでいる、ということだと思います。ですから、合掌礼拝できるかどうかは、自らのいのちをしっかり見つめ、その尊さに気づいているかどうかにかかっているのです。
(06年9月29日、開祖生誕100年記念参拝)
勧請
勧請とは本来、私たちが仏さまに教えを請い、永遠にこの世に住して人々を救ってくださいと請願することを指します。言い換えれば、私たちが仏さまのご法を自分のものとして、人さまにお伝えすることが、仏さまがこの世で法を説き続けることにつながるのです。一人ひとりがご法をしっかりと会得(えとく)して、人さまにお伝えするところに「仏が住す」ということです。また、勧請とは、具体的には、家庭に仏さまをお祀(まつ)りすることでもあります。今私たちは、「斉家」(家庭をととのえる)ということで、ご宝前を中心としてぬくもりのある家族になるようにと、精進をさせて頂いております。社会の一番小さな単位である家庭、家族が、本当にぬくもりのあるものになれば、世の中にも大きく影響していくわけです。そして、一切の生きとし生けるものが幸せになりますようにという「願生(がんしょう)」のもとに、精進することが大事なのです。
(08年9月14日、第1回勧請式)
善き友
私たちも、法座などで、「こんなことを感じました」「こんなふうに思いました」と語り合っています。その中で、お互いに重荷を下ろし、気持ちが楽になり、生きることがとても楽しくなっていく――そういう仲間こそが、お釈迦さまの言われる本当の友ということです。何かを教えてくれる人、相手の一言、気づきによって、自分が楽になり、幸せになっていくのが、本質的な友であります。(中略)開祖さまが亡くなられて、昨年で十年が経ちました。開祖さまは亡くなられましたが、ご法はなくなっていない。一人ひとりのサンガ、友人、善き友の中に伝わっている。そういう心強い思いがいたしました。そこで、サンガにとって一番大事な、お互いに教え合い、気づき合うという意味合いを込め、また本当にお互いさま、真の友として、精進をさせて頂きたいという意味合いから、『善友』という書き初めをさせて頂きました。
(10年1月7日、御親教)
仏性を磨く
私たちはよく「仏性開顕」という言葉を使いますが、それだけでは少し分かりにくいですね。これを「仏性を磨く」と言い換えてみると、ある程度分かってまいります。それでは、仏性を磨くには、具体的にどうすればいいのか、私なりに学んだことを申し上げてみます。仏性を磨く上においては、三つほどの要素があります。一つは「感性」。それから「知性」。そして「品性」。「感性」を磨くという中にも三つあり、その一つは、人のやさしさを感じる心。二つ目は、ものの美しさを感じる心。三つ目が、神の秘め事、これは神秘、不思議を感じる心です。こうした心を養っていくことが大事だと思います。次に、「知性」になりますと、大きくは、宇宙の構造を把握していく。そして、生命の構造を把握する。さらには人間の構造を把握していくことが含まれてきます。三つ目の「品性」では、まず、自分を人に示したいという自己顕示欲というものをなくしていく。それから独善性、自己中心性をなくしていくことが考えられます。これは、イコール「謙虚になること」と言えます。こうした「感性」「知性」「品性」を磨いて高めていくことが、私たちの「仏性開顕」、あるいは「仏性を磨く」ということに当たるのだと思います。
(10年4月3日、学林入林式)
法燈継承30年(1) 会長就任から10年の歩み