【特別インタビュー 第38回庭野平和賞受賞者 昭慧法師】多様性を尊び、分かち合う世界を目指して
「縁起」の教えを理解し
庭野 社会運動の中で、特に力を入れてきた活動はありますか。
昭慧 それは、仏教界で男女平等を推進する運動です。比丘尼(びくに=尼僧)は比丘(男性僧侶)を常に敬い、従わなければならないと定めた「八敬法」という規律があります。私はこれについて研究・分析し、釈尊の言葉ではないと結論づけ、仏教界での男女平等を訴えてきました。
しかし、残念ながら、現在も多くの人が、仏教では女性は男性よりも地位が低いと説かれていると思っています。台湾では、尼僧の割合が非常に高い(男性僧侶の5倍)にもかかわらず、リーダー的な役割を担うのは男性僧侶が中心です。ですから、男性僧侶は尼僧から学ぶという姿勢を持ちにくく、どうしても高慢になりやすい環境になります。一方、尼僧は卑屈になる傾向が強くなると感じていました。
縁起の教えからすれば、今の自分があること、成し得たこと、これら全ては自分の力だけでなく、さまざまな関係のおかげなのですから、本当に縁起を理解すれば人は自分におごることなく、謙虚になると思います。そうした土壌をつくっていくためにも差別的な状況は改善し、性差を超えて互いを信頼、尊敬できるように男女平等の環境をつくっていかなければなりません。
庭野 昭慧法師は、師である印順導師から大きな影響を受けたと伺っています。師が提唱した「人間仏教」とは、どんな教えですか。
昭慧 釈尊は、人々を苦難から救うために、衆生に法を伝えました。印順導師はそのことをとても大切にされました。一方、僧侶が自分の悟りだけのために修行すること、ましてや衆生と触れ合うことを修行の妨げと思うこと、僧侶が生きている人に教えを説かずに葬儀に重きを置くことを戒められました。人々に仏教を伝え、それぞれが教えを生活に生かすことを願われたのです。
そのために導師は、私たちに対し、「この場所で何が起こっているのか」「この時代に何が起こっているのか」「人々はどのような境遇にあるのか」に、いつも関心を持つように言いました。その上で、「自分たちにできる努力をしなさい」と諭されたのです。当時の私は大きな衝撃を受け、これこそ大乗菩薩道だと感動したのです。
「人間仏教」では、衆生と触れ合い、人のために自らの身を使うことを重視します。それは利他行を通して、自らの貪(むさぼ)りや怒りや妬(ねた)みといった「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」を取り去る修行でもあります。
これは社会運動でも同じで、私は取り組む時、「無我」を心がけています。無我になるという修行の目的に立ち戻ることができれば、苦しんでいる人のために、速やかに行動を起こせます。反対に、他人や社会の評価を気にしたり、自身の将来を思い煩ったりして、保身のために苦しんでいる人を見過ごすことは、自分への執着の表れです。たとえ善い行いをしたとしても、名利を求めることもそれと同じです。
どんなに汚い言葉を浴びせられても動じず、相手を恨んだり、自己憐憫(れんびん)に浸ったりせず、見返りなど考えずに、すべきことに集中する――人に尽くす時ほど、無我で取り組むことが大切です。このような心境である時、その人は成仏に達していると言えるのではないでしょうか。
庭野 どんな時も常に自身の心を見つめていくことが大切なのですね。仏教徒として、とても共感いたします。さらに、庭野平和財団の庭野日敬名誉総裁は立正佼成会の開祖ですが、佼成会では、自分よりも「まず人さま」の幸せのために生きていこうと教えられていますので、通じるところが大変あると感じています。そうした考えを持つ昭慧法師は1986年に「佛教弘誓學院」を創立されました。どのような人づくりを目指してこられたのですか。
昭慧 學院を創立したのは、若者に仏教の核心を深く学んでほしいと願ってのことです。特に、「縁起」の教えを理解してほしいと思いました。
この世界は、さまざまな人がいて、あらゆるいのち、物事が関係し合って成り立っています。そして一人ひとりは、その結びつきによって存在しています。この世の真理である縁起観を深く理解できれば、人は傲慢(ごうまん)になることなく、さまざまないのちを尊重し、世界中がつながり合えると思うのです。自分の宗教だけが正しいという頑(かたく)なな考えを持たず、それぞれの宗教の違いを認めて協力できるはずです。
しかし、この世が縁起で成り立っていることを知らなければ、自分の思い通りにしたくなり、違う考え方を持った人たちと対立してしまうでしょう。自分に固執するあまり、さまざまな変化にも対応できず、調和を乱して、ひいては自分を苦しめてしまいます。
どの時代も、よりよい社会、世界をつくっていくには、いのちを尊重し、どの人とも平等に接し、相手を慈しむことができる人づくりが大事だと思ってきました。そうした考えを持って生きていければ、その人自身も自らに具(そな)わった力を発揮できると信じています。