インドでの光祥次代会長一行 シャンティ・アシュラムの取り組みに敬意
青年たちとの一問一答から
Q.私は祖父のことが大好きで、祖父は私にとって特別な人です。光祥さまはご自分のおじいさまのことを、どのように思われていますか。
A.私にとっても祖父(庭野日敬開祖)は特別な存在です。私にとても壮大な人生のビジョンを与えてくれました。
祖父は私たち孫を「豆菩薩」と呼んでくれました。そのおかげで、私たちは小さな頃から自分たちを、人に尽くすことのできる、価値のある存在だと信じることができました。
人間とは素晴らしい存在であり、また、人に尽くす生き方がどれほど素晴らしいかということを祖父から学びました。
Q.青年に、「自分自身の存在の価値」というものを、どのように伝えられますか。
A.青年たちに伝えたいことは、「人と比べて自分には価値がない」などと思う必要はない、ということです。
あなたは素晴らしい存在であるということを伝えたいと思います。そして、あなたと同じようにどの人もそれぞれ価値がある素晴らしい存在であるということを知り、自分に自信が持てない人々に「あなたには価値がある、あなたは見捨てられた存在などではない」というメッセージを伝える人になってほしいと願っています。
すべての人がそのような心を持てば、暴力や差別はなくなると私は信じています。
Q.私たちの心は、常に酷使されている状態にあり、思考から思考へジャンプし、考えられないことを考え、いつも電源がオンのモードにあります。そのため、「瞑想(めいそう)」が勧められています。瞑想とは、思考や感情をブロックして、何も考えないことなのでしょうか。
A.瞑想は、私たちの頭の中を絶えず流れている思考をストップして、感情を鎮め、意識を「今」に集中してくれます。「今」に集中しているというのは、自分の頭の中で誰もしゃべっていない状態です。思考と感情がストップすることで、「今」に集中して、今の自分をありのままに感じられる状態になります。その状態で世界を見ると、私たちにも物事の本質が少しずつ見えてきます。
私たちの心が酷使され、すり減るのは、今を生きているのではなくて、いつもまだ起きていない未来のことばかり考えているからです。例えば、食事が終わって食器を洗っている時に、次に飲むコーヒーのことばかり考えていることはありませんか。それでは今を生きることはできません。
まだ来ない未来のことを考えて、いつも不安定な状態で生きていくのではなく、今の喜びを今喜び、今の悲しみを共に悲しむ。そうすることで私たちは本当の自分を取り戻すことができます。本当の自分を取り戻すことができると、他の人のためのスペースも自分の中につくることができます。すると、何とも言えない深い安心感を得ることができて、人間に対する信頼で私たちの心の中が満たされます。
瞑想とは、そのような生き方の助けとなるものだと私は信じています。
Q.日本には古くから自然災害の歴史があり、災害対策と危機管理の世界的なリーダーとなっています。私たちは、被災した人々や土地が、何度も蘇(よみがえ)った話を数多く聞きました。何が、日本をそんなに回復力の強い国にしているのでしょうか。
A.矛盾しているようですが、自然災害が多いことが日本人を回復力の強い国民にしてくれたのだと思います。
仏教では、お釈迦さまは人生は苦である(一切皆苦)と悟られました。私たちがどんなに祈っても、どんなに善いことをしても、災害が起これば同じように被災します。けれど、その災害により私たちは自分一人では生きていけないこと、助け合い、譲り合わなければ生きられないことを学びます。これを仏教では「諸法無我」と言います。私は私以外のすべての存在に支えられて存在している。このことを私たち日本人に教えてくれたのが、自然災害だと思います。
2011年に起きた東日本大震災の時も、国中で電気を譲り合う「計画停電」を実施しました。通常であれば文句を言う人も多かったかもしれません。けれど、その時、日本では皆喜んで我慢しました。また、それまで助け合い、譲り合うことに無関心だった若者たちが、乗り物で老人に席を譲る姿が多く見られました。
とても辛(つら)いことではありますが、苦しみが私たちに慈悲の心を育ててくれるのだと思います。
Q.私たちの国には、いろいろな宗教が存在し、さまざまな信仰を持つ友人がいます。通常は、対立を恐れて、伝統や信念などデリケートな問題についての話を避けています。私たちは、合意できることにのみ焦点を合わせて話をするべきでしょうか。効果的な宗教間対話の条件とは、どのようなものでしょうか。
A.もちろん、違いに配慮して相手を思いやる発言をすることはとても大切なことです。私の祖父も、宗教間対話のために何よりも大切なのは「忍耐」である、と言いました。けれど、もう一つ大切なことは、どの宗教にも共通している根源的な価値を信じることです。どの宗教も皆、私たち人間が幸せになるために存在しているのだということを心から信じることです。そうすることで、表面的な違いを超えることができるはずです。
そして、何よりも大事なのは、他者の信仰の形式や言葉に着目して、それにとらわれるのでなく、自らの信仰の本源に忠実であろうとすることです。私の信じる神仏の究極の願いは何なのか、その願いに自分が本当に忠実に生きているのか。問うべきは、相手の信仰ではなくて、自らの信仰に忠実であるか、ということではないかと私は思います。
Q.宗教を信仰するとき、ほとんどの場合、教義をそのまま受け入れ、疑問を持たないことが好ましいとされます。このことを、どう思われますか。宗教間対話において、相手を非難せず、どのような方法で、参画を促すことができるでしょうか。
A.私が大切だと思うのは、絶対的に信じている自分を客体化することだと思います。そして、私の祖父が教えてくれたのは「自分たちだけが世界をよくする精神を持っている、自分の宗教だけが世界をよくし得る力を備えている、というような奢(おご)る気持ちを持ってはいけない」「誇りを持つべきであるが、驕慢(きょうまん)は爪の先ほども持ってはいけない」ということでした。
そして「世の中にはたくさんの人が世界の調和を希求する気持ちを持っており、みんなが一緒に幸せになりたいという願望を持っていることを知るべきである」と言っていました。
この祖父の言葉が、宗教間対話の場で最も必要であると私は信じています。