特集・第10回世界宗教者平和会議世界大会に向けて WCRP/RfP日本委「平和大学講座」で光祥次代会長が基調発題
受け入れがたい人々との共生とは
日本でいえば、心愛(みあ=※栗原心愛)ちゃんのように親から虐待されて亡くなる子どもたちこそケアされるべきで、心愛ちゃんの未来、命を救えなかったことは本当に無念です。心愛ちゃんの未来に対しては、誰もが「ケアされるべき、ケアしたい」と思うでしょう。けれど共通の未来を分かち合うOthersとは、心愛ちゃんを死に追いやったような人たちかもしれません。私たちの宗教的観点や世間的な道徳観・倫理観から見て外れている人たち、テロリストかもしれない移民や難民、私たちの命の安全を脅かす人々も含まれています。彼らと一緒にどうやってCommon Futureを築いていくのか? これがこのテーマの問いです。
Curingであれば、現実問題に対処するためのアクションプランを立てる、という解決法の話し合いでいいのかもしれません。それもとても大事なことです。けれどCaringには、より深い心の痛みと叫びが込められ、深い共感が求められています。「親切にしましょう」「仲良く暮らしましょう」という標語やアクションプランではなく、信仰を持っているのになぜ受け入れられないのか、という厳しい現実の問い掛けです。自分が持っている弱さや汚さを見つめざるを得ない、重いテーマです。
Curingではなく、Caringをテーマとして選ばざるを得なかったドイツの痛み。移民や難民を受け入れたくても、これ以上受け入れることのできない自己矛盾や後ろめたさ。そういう現状を理解し共感して大会を迎えることも大会準備の重要な要素でしょう。
最近、「ケアするには資質が必要だ」と教えて頂きました。「この人に助けてもらいたい、と思ってもらえる」という資質です。「助けてもらいたい」にも種類があって、力を借りたい時もあるし、知恵を貸してほしい場合もある。弱っている時には、パワーがある人よりも、痛みが分かる人にそっとそばにいてもらいたいと思う。そういう資質を英語では古来Avail(アベイル)と言い、自分がそういう状態にあることをAvailable(アベイラブル)と言います。「手が空いている」「出来ますよ」「求めに応じられますよ」という意味です。この「アベイラブルである」ということが、ケアにはとても大事だと教えて頂きました。
キリスト教で「教会に集うのは赦(ゆる)された罪人(つみびと)たちである」という、とてもすてきなお話を伺ったことがあります。自らの弱さや不完全さを認め、自分も赦された罪人なのだという自己認識がアベイル=この人に助けてもらいたいと思ってもらえる資質の基盤につながるものかもしれません。
信仰をもってしても、もうこれ以上コミットできないような状態で、異質の人、移民や難民とドイツの人たちが傷つき合いながらも、どのように共通の未来をケアしていくかを模索し、未来、Futureを共に考えると言っています。
一回謝れば謝罪は終わりだと主張する日本は、核問題や慰安婦問題を抱えた北朝鮮や韓国とのCommon Futureをどう考えるのでしょう。WCRP/RfP日本委員会理事長の植松誠先生は、先週NHKの「こころの時代」にご出演になり、そのことについて問われ、「宗教者は謝罪を生きる」とお答えになられました。とても感動いたしました。「謝罪を生きる」の中には、東アジアの痛みを「自分ごと」とし、どうあるべきかを考えることも含まれるのではないか。それが日本にとっての大会準備ではないかとも感じました。