「法華三部経」の要点
法師品第十(ほっしほんだいじゅう)
法師とは、『法華経』を世に広めるために努力する人のことをいいます。『法華経』を世に広めるとは、言い換えれば、生かされていることに感謝する心と思いやりの実践を伝えていくことです。
この品には、法師は、悩み苦しむすべての人々を救う慈悲の心から、自ら願ってこの世に人間として生まれてきたと説かれています。「一切の生きとし生けるものが救われるように、幸せになるように」との願いを、私たちは心の奥底に持っているということです。それは、お釈迦さま、開祖さまの願いそのものです。このことをしっかりと心に刻むことが大切です。
また、「受持(じゅじ)」「読(どく)」「誦(じゅ)」「解説(げせつ)」「書写(しょしゃ)」の行が示されます。これは、法師の大切な行を五つに分けて述べられたもので、「五種法師(ごしゅほっし)」と言われています。さらに、お釈迦さまはこの品の中で、「如来(にょらい)の室(しつ)に入(い)り」「如来の衣(ころも)を著(き)」「如来の座(ざ)に坐(ざ)して」という法師の心構えを説かれます。
「如来の室」とは、どんな人でも救おうという大きな慈悲心のことです。
「如来の衣」とは、柔和忍辱(にゅうわにんにく)の心。つまり、柔らかで和やかな心です。そして、どんなにひどい目に遭(あ)っても怒(いか)らない、人からほめられても有頂天にならない、強い精神力を持つことです。
「如来の座」とは、すべては仏の慈悲に生かされ、大調和している平等な存在だと見ることです。
お釈迦さまのように、どうしたら目の前の方にご法をお伝えできるか、多くの方に理解して頂くことができるかという、思いやりの心で触れ合うことが大事です。
見宝塔品第十一(けんほうとうほんだいじゅういち)
菩薩たちが法師の自覚に立つと、地面から宝塔が現れます。宝塔は仏性を意味しており、凡夫(ぼんぷ)と思い込んでいた自分自身〈地面〉に仏性を発見するということです。
宝塔の中には、真理そのものである多宝如来がおいでになり、お釈迦さまを招き入れ、同席されます。これは、真理と真理を説く人は同じように尊いことを表しています。そしてお釈迦さまは「大変難しいことだが、だれかこの娑婆(しゃば)世界で『法華経』を説く者はないか」と、大号令を発せられます。
『法華経』にご縁を頂いた私たちは、如来の使いとしての自覚と誇りを持ち、この教えと、教えによって救われた悦(よろこ)びを多くの人に伝えてまいりましょう。
提婆達多品第十二(だいばだったほんだいじゅうに)
お釈迦さまは、自分の命までも奪おうとした提婆達多や、わずか八歳の龍王の娘〈龍女(りゅうにょ)〉に対しても、これまでと同様に成仏の保証を与えられます。これは、どんな人でも平等に仏になれることをあらためて宣言したもので、仏性の自覚を促す締(し)めくくりとしてとても重要です。
お釈迦さまは、提婆達多のおかげで成仏できたと説かれます。人から不都合なことをされても、そこから学ぼうとすると、それが成仏の縁になります。苦のおかげさまで真剣に教えを学ぼうという心が起きるのです。苦手な人や嫌なことも、自分を高める善(よ)き縁です。すべての現象が自分の成長のために不可欠なものです。また、龍女の姿は、これまでの価値観や常識の問い直しが求められる、今を生きる私たちに重なります。すべての現象が自分の成長のために不可欠なものです。それが分かると無常の人生を生き抜く強くて柔軟(にゅうなん)な心が育つのです。
勧持品第十三(かんじほんだいじゅうさん)
「見宝塔(けんほうとう)品」でお釈迦さまは、「だれかこの娑婆(しゃば)世界で『法華経』を説く者はないか」と大号令を発せられました。この品では、菩薩たちがそれに応え、どんな困難にあっても必ず説き広めることを誓います。
勧持とは「受持(じゅじ)を勧(すす)める」という意味です。菩薩たちが声をそろえて唱えた「我身命(われしんみょう)を愛(あい)せず 但無上道(ただむじょうどう)を惜(おし)む」という句には、教えを行じる仏教徒としての力強い誓いが込められています。





