新教皇レオ14世が選出される(海外通信・バチカン支局)

システィン礼拝堂の煙突から出た”白煙“(カーシャ・アルテミアク撮影)

5月7日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂(サンピエトロ大聖堂)で「教皇選挙(コンクラーベ)のためのミサ」が枢機卿団主席のジョバンニ・バッティスタ・レ枢機卿の司式によって執り行われ、新教皇の選挙が最終段階に入っていった。

レ枢機卿は、ミサ中の説教で、教皇選挙の会場(システィーナ礼拝堂)へ入る133人=2人の枢機卿(スペインとケニア)が病欠=の枢機卿を前に、「神なるキリストを念頭と心の中に置き、教会と人類の善を追求していく」教皇を選出するようにと、最後のアピールを行った。レ枢機卿は「キリストの愛には際限がなく、その愛がキリストの弟子たちの思いと行動を特徴付けなければ(ならない)」と続け、教皇パウロ六世が説いた「愛の文明」を引用しながら、「愛のみに世界を変える力がある」と訴えた。聖ペトロの後継者である教皇の役割は「交流を促進する」ことであり、「交流がカトリック教会の影響を強化する(ような)自画自賛となってはならず、人々、諸国民、諸文化間での交流を促進」し、「カトリック教会が交流の家、学校となっていかなければならない」と強調。さらに、「大きな技術発展を遂げながらも、神を忘れる傾向にある現代社会にあって、神がカトリック教会に、全ての人の意識と、道徳的・霊的エネルギーを呼び覚まさせる教皇を与えてくださいますように」と祈り、「現代世界がカトリック教会に、人間のよりよき共存と、次世代のための善に不可欠な人間的・霊的価値観の保全を求めている」と選挙に入る枢機卿たちを励ました。

ミサを終えた枢機卿たちは午後4時30分、諸聖人の連祷を唱えながらシスティーナ礼拝堂に入り、聖書に手を置き、選挙のための宣誓を行った。教皇儀典室のディエゴ・ジョバンニ・ラヴェッリ儀典長が、「エクストラ・オムネス」(全ての部外者は退場)を発し、礼拝堂の扉を閉めたのは午後5時43分だった。その頃には既に、第1回の投票結果を知らせる礼拝堂の煙突から上がる煙を見ようとする人々で、バチカン広場が埋まっていた。1回目の投票の結果は午後7時の予想より大幅に遅れ、午後9時に礼拝堂の煙突から黒煙(選出されずの意)が上がった。

選挙2日目の8日、午前11時51分に煙突から出た煙は黒だった。第2、3回の投票で、誰も3分の2(89票)の票を得ることができなかった。同日午後の4回目の投票では、しばらく煙突から煙が上がらず、選挙が長引くのではないかとの予測が流れ始めた。だが、午後6時7分、煙突から最初は灰色がかった煙が上がり始め、時と共にもくもくと白煙(選出されたとの意)になっていった。

バチカン広場でコンクラーベを見守る人々(カーシャ・アルテミアク撮影)

バチカン広場と参道のコンチリアツィオーネ通りを埋め尽くした大群衆から、大きな歓声と拍手が沸き上がり、聖ペトロ大聖堂の鐘が祝いを告げた。バチカンのスイス衛兵とイタリア軍の兵士が編隊を組んでバチカン広場へ入場し、中央バルコニーの下で整列した。間もなく、聖ペトロ大聖堂中央バルコニーのガラス張りの扉が開き、フランス人のドミニク・マンベルティ枢機卿が、「大きな喜びを、お伝えします。新教皇が決まりました」と告げ、「ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿で、レオ十四世を名乗ります」と明らかにした。報道関係者の下馬評での予測は全く外れた。

新教皇は1955年、米国シカゴ生まれ。フランス系米国人の家庭で育ち、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、フランス語を流暢(りゅうちょう)に話す。1985年から99年まで南米のペルーで宣教活動に従事し、教皇フランシスコによって2023年に、バチカン司教省の長官、教皇庁ラテンアメリカ委員会委員長、枢機卿に任命されていた。カトリック教会史上初の米国人教皇で、アゴスティーノ修道会の総長も務めた。教皇フランシスコの改革路線によって、多くのオープンで革新派のカトリック指導者を育成してきたとも言われる。ペルーでの宣教活動中には、社会で疎外されている人々や密航移民者たちに特別なる配慮を示し、教皇フランシスコの信頼を得ていた。米国と中南米のカトリック教会を結び付ける指導者としても期待されている。

レオ14世(カーシャ・アルテミアク撮影)

新教皇は、聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーから、「あなたたちも一緒に、相互に助け合いながら、対話と出会いによって橋を構築し、全ての人々を平和の裡(うち)に一つの民として結び付けることができるように努力してください」と呼びかけ、世界とローマを祝福した。
(宮平宏・バチカン支局長)