鮮やかな初夏の彩り 大聖堂の蓮が開花

大聖堂1階庭園広場(東京・杉並区)の蓮池に植生している「二千年蓮(大賀蓮)」などの蓮がこのほど、開花した。立正佼成会では2009年から、本部周辺で蓮の花が観賞できる環境を整える「ロータス・プロジェクト」がスタート。現在は、池と鉢に「二千年蓮」「白光蓮(びゃっこうれん)」「即非蓮(そくひれん)」「小舞妃蓮(しょうまいひれん)」などが植わっている。

蓮は、泥の中にあって、美しい花を咲かせることから、仏教では「泥中の蓮華」として仏教徒の生き方のたとえに用いられる。

蓮の花のように

法華経の説くところは、ものごとの讃歎(さんたん)にあります。正しくは「妙法蓮華経」といいますが、この世界は妙なる華(はな)で満ちていると見るのです。

私たちは一人ひとりがみな違い、それぞれに個性や持ち味がありますが、もとをたどれば、みんな、仏さまの「いのち」を授かって生まれてきたのであり、その人生で蓮のような美しい花を開かせていこうと教えているのです。

法華経には「世間の法に染まざること 蓮華の水に在(あ)るが如(ごと)し」という一節があって、古来、多くの人に生きる勇気と喜びを与えてきました。

いつの世にも、つらく苦しいことは存在します。けれども、困難が多いと感じられる時代ほど、蓮の花がもつ意味合いは深みを増すように思います。

蓮の花が美しく咲くには、泥が必要だといいます。その泥はしばしば、世の中の悪い風潮や、苦しみや悲しみなどの出来事にたとえられます。悪現象にとらわれたり沈んだりしない、というのが「染まらず」の意味するところです。

恨み言を言いたくなるほど悪い世の中も、自分にとって理不尽な出来事も、見方を変えて「これは大事なことを教えてくださる仏さまの方便ではないか」ととらえると、どれもが滋味豊かな糧であることがわかります。

苦を味わえばこそ、人さまの辛苦に共感できます。失敗や挫折は、謙虚さを学ぶ慈悲のはたらきかけかもしれません。病気もまた、いま生きていることに感謝する心を育ててくれます。泥があってこそ大輪の花を咲かせる蓮のように、人間も苦を体験することで大きく成長し、そこにほんとうの喜びや感謝が生まれてくるのです。

(庭野日鑛著『こころの眼を開く』P273、佼成出版社、2013年)