「バチカンと科学――人工知能の軍事利用」など海外の宗教ニュース(海外通信・本紙バチカン支局)
聖都エルサレムに泣いたキリスト――教皇
バチカン諸宗教対話評議会(現・諸宗教対話省)と諸宗教対話のためのパレスチナ委員会は6年前の2017年12月6日にローマで会合を開き、「対話のための合同作業部会」を設置する覚書に署名した。同部会の集いがこのほど、『聖都エルサレム』をテーマにローマで開催され、参加者はバチカンでローマ教皇フランシスコと謁見(えっけん)した。
この中で、教皇は、「ユダヤ教徒、キリスト教徒、ムスリム(イスラーム教徒)にとっての聖地エルサレムの霊的意味」についてスピーチ。2019年に教皇がモロッコ国王と共に署名した「聖都エルサレムに関する共同声明文」に言及し、人類共通の遺産である聖都が「三つの唯一神教の信徒たちの出会いの場、平和共存のシンボルとなっていくように」と記された同声明文の重要性について説いた。
さらに、聖都エルサレムはキリストの生涯にまつわる多くの物語、さまざまな教えと奇跡、受難、死、復活によって全うされたキリストの使命の舞台となり、キリスト教信仰の心臓部であると述べ、そこでキリスト教の教会が生まれ、全ての人々に対して救いのメッセージを発するように促されたと指摘。「聖都は、その名が持つ“平和都市”という意味の通り普遍的な価値を有する」と訴えた。
ここで教皇は、キリストが自身の受難に直面するため聖都に入城し、都の姿を展望しながら“泣いた”という、聖書のエピソードを紹介した。聖書には「イエスはこれらの事を言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら・・・それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである』」(ルカによる福音書19章41、42節)と記されており、これはエルサレムの人々が聖都に「平和をもたらす道」を知らず、「神の訪れ(救世主の降臨)の時」をも無視し、世界史上で実際に実現した聖都壊滅への道を歩むことに悲嘆するキリストの姿を描写したものだ。
教皇は、「このキリストの悲嘆は、沈黙のうちに瞑想(めいそう)されるべき」と述べ、「兄弟姉妹たちよ、どれだけ多くの人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ムスリムが、エルサレムのために泣き、今でも泣いているか」と訴えた。
「聖都エルサレム問題」は、中東紛争解決へ向けた最大の難関と呼ばれている。エルサレムはイスラエル、パレスチナがそれぞれ国家の首都と主張しているが、イスラエルは一方的に「永遠で、分割できないイスラエルの首都」と制定。古代史跡の集中する東エルサレムを含めて、ユダヤ人の入植や地方行政政策を推し進めエルサレムのユダヤ化を推進している。
中東3大宗教に共通する聖都で、キリスト教徒は数世紀にわたって培われてきたさまざまなキリスト教聖域の管理権に関する慣習(Status Quo)が、イスラエル政府によって覆され、ユダヤ化されていくことを恐れている。ユダヤ教徒が「神殿の丘」と、ムスリムが「アルアクサ・モスク」と呼ぶ両宗教に共通する聖域では、イスラエル政府や極右ユダヤ教徒によるムスリムのアクセス、礼拝活動の規制、挑発行為が続いており、両宗教の信徒間で衝突が絶えない。
教皇は、聖都エルサレムで今も続く紛争の状況が「私たちの涙を誘う」と憂慮を表明。前述した聖書にある福音の一節が「慈しみの価値」を強調していると指摘した。そして、「エルサレムに対する神の慈しみ」が、「あらゆるイデオロギー、勢力対立構造よりもさらに強い、私たちの慈しみの心となっていかなければならない」と呼びかけた。これは、「自分の子供たちが苦しんでいるが故に、自身の心のうちに平和を見いだせないでいる母親が持つ慈しみ」なのだ。
(宮平宏・本紙バチカン支局長)