第七百四十回波木井山川施餓鬼法要 「和」の精神を後世に 庭野会長が参列し「おことば」

法要の席上、「おことば」に立った庭野会長。日本人が理想としてきた「大和」の精神を正しく理解し、後世に伝えていくことが大事と述べた

8月19日午前、山梨・身延町にある波木井山円実寺(長谷川日喜住職)で「第七百四十回波木井山川施餓鬼法要」が行われ、立正佼成会の庭野日鑛会長が参列した。さらに本会から、國富敬二理事長、山中快之中部教区長、熊野隆規教務部部長、昆野登紀枝中京支教区長、山梨県5教会の教会長と会員代表が参加。鰍沢教会と本部教務グループが受け入れにあたり、当日の模様は同グループが動画共有サイトを使ってライブ配信した。

円実寺は鎌倉時代に創建された。波木井実長(南部六郎実長)公が、帰依していた日蓮聖人を領地に招き、身延山を寄進したのち、自身の城を改めた際に日蓮聖人から「波木井山円実寺」と命名された。川施餓鬼法要は、富士川の氾濫で多くの犠牲者が出た際、波木井公が日蓮聖人に請願し、法要を営んだことに由来する。円実寺と本会とは、昭和21(1946)年に庭野日敬開祖と長沼妙佼脇祖が同寺に立ち寄り、その後に寺の再興に協力して以来、親交を深めている。

同法要は3年前まで、午前と午後の計2回行われ、本会の50を超える教会から計1200人以上の会員が参加していた。しかし、コロナ禍により一昨年から法要は午前のみとなり、参列者も少人数に限定している。

今年、76教会の会員から戒名が寄せられた。当日は境内に、僧侶によって謹写された3000体の塔婆(とうば)が安置された。法要は本堂で営まれ、読経、焼香、唱題に続き、参列者の身体健全などを祈禱(きとう)する修法が行われた。

続いて、長谷川住職があいさつした。長谷川師は、終息の見えないコロナ禍やウクライナ情勢など不安定な国内外の状況を挙げ、こうした時こそ信仰を確立していくことが大切と強調。仏道を求める人の姿勢を説いた『法華経』の「分別功徳品第十七」の一節や日蓮聖人の言葉を紹介し、参列者に向けて「不退転の心でお題目を唱え、今の苦しい時を乗り越えていきましょう」と述べた。

この後、庭野会長が「おことば」に立った。庭野会長は、昭和20年8月15日に「終戦の詔勅(しょうちょく)」(玉音放送)を新潟・十日町市菅沼で聞いた時の様子を紹介。当時、小学2年生で内容は分からなかったものの、現在は「終戦の詔勅」にある「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」という一節を、人類永遠の平和の実現を図る大切な言葉として受けとめていると述べた。

また、日本がかつて国名を「大和(やまと)」と定め、聖徳太子が「和を以(もっ)て貴(たっと)しと為(な)す」という言葉を十七条憲法の第一条に掲げたことに言及。「大和(やまと・だいわ)」とは、大いなる平和、大いなる調和という意味であり、「その精神は歴史的に終始一貫する日本の国家的、民族的な理想であったと言えます」と説明した。日本が戦争に走った時代はあったものの、「本来的には和を大事にしてきた国であり、その精神を正しく理解し受け取って、後世に伝えていくことが大事」と述べ、伝統ある法要に参加できた意義をかみしめ感謝の念を表した。

本会と円実寺との交流

円実寺との交流は、昭和21年に庭野日敬開祖と長沼妙佼脇祖が七面山参拝の折、同寺に参詣したことに始まる。当時の本堂は古く、傷んでいたことから、その後、庭野開祖、長沼脇祖が「日蓮聖人の大恩人の波木井公のお寺をこのままにしておけない。私共も応援させて頂きます」と進言。やがて本会会員と檀家(だんか)信徒から浄財の支援がなされ、本堂が再建された。

以来、本会と同寺は親交を深め、庭野開祖が毎年、同寺の川施餓鬼法要に参列するようになった。平成8年の「波木井山開山・法寂院日圓上人第七百遠忌報恩(慶讃)大法要」に参列した庭野開祖は「お言葉」の中で、「日蓮聖人に帰依し身延全山を寄進した波木井公の精神こそ、私たちが見習うべき在家修行者の見本です」と述べている。