内藤麻里子の文芸観察(30)

浅田次郎さんの『母の待つ里』(新潮社)は、本の装丁とタイトルを一見すると、いかにも郷愁を誘う。けれど、そう見せておいて、実はここに描かれるのは現代人(特に都会に住む)の空虚さと、地方と都会の格差だ。

大企業で社長に上り詰めた松永徹は、捨てた故郷に四十数年ぶりの帰郷を果たす。けれど行き会う人や、たどる道にあまり記憶がないらしい。あまつさえ、母の名すら忘れている。何かが変なのだが、迎える母は温かい笑顔を見せ、方言は耳に心地よく、寝物語まで聞かせる。1泊して帰る道すがら、驚きの事実が判明する。「母の待つ里」には絡繰(からく)りがあったのだ。この絡繰りにひかれて、定年と同時に妻に捨てられた室田精一と、還暦間近の医師・古賀夏生もやってくる。

3人とも東京生まれで故郷を持たない。たまに田舎を味わうのは癒やしになるし、そういう場所を提供するのは過疎化が進む地方にとって生き残り戦略として有効ではないか。明るい見通しのようであるが、そうすんなりといかない。単なる観光ではなく、たとえ1泊でも暮らしの中に身を置いた3人はそれぞれ何かを感じ、考え始める。

ある者は東京での仕事や暮らしを虚業のように感じる。故郷のある人なら、帰省のたびに味わう感覚ではないだろうか。また、「母の待つ里」はアメリカで人気になったシステムを導入したらしい。これに東京ディズニーランド開園当時を思い出し、アミューズメントとしての「ホスピタリティの精度」を思い知り、「アメリカの実力を見せつけられた」と振り返る者もいる。さらにある者は、認知症になった母親を施設に入れ、最期に寄り添えなかったと悔いる。そして「母の待つ里」の母だけは、と思ったりするのだが、不思議なことに、これは他人だから容易に持ち得る感覚なのだ。家族に対しては自己都合を優先したり、愛憎があったりで、ないがしろな対応を取りがちなのが実情だ。

一方で、受け入れる側に能力のある人材と、犠牲を受け止める覚悟も必要だ。どの地方でもできることではない。

そんな現代の様相が浮き彫りになるのだが、小説巧者である作家はストレートに描くわけではなく、一つ一つの場面に溶け込ませる。親友や妹の忠告などもあって、多面的に展開していく。終幕に待っている出来事は、薄ら寒いほどの現代の空虚さを際立たせる。

読んだ後、思わず自らを振り返ってしまう。故郷や親のことについて、仕事や暮らしについて無性に誰かと語り合いたくなる小説だ。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

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