ヤングケアラーと関わる上での心構え 彼らが夢を諦めず、それぞれの人生を生きるために 立命館大学産業社会学部教授・斎藤真緒氏

ヤングケアラー(本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子ども)は、他の子どもと比べ、人生の土台作りとなる教育や人間関係に割くエネルギー、時間が不足し、人生設計に影響を受けていることが、さまざまな調査結果から明らかになっています。また、自立のプロセスにも大きな障壁が築かれます。<ケアがあるから家を離れられない>という心理が強く働くからです。家族のために何ができるか、という責任感と自らの夢のはざまで葛藤し、家を離れることに罪悪感を抱き、結果として、ケアを理由に夢を諦めざるを得ない子どもが少なくないのです。

一方で、当事者の周縁にいる私たちはどうでしょうか。彼らの頑張りをたたえようと、「家族思いの良い子ね」「おじいちゃん、おばあちゃんの世話をして偉いね」などと伝えてはいないでしょうか。これでは、子どもが「本当は嫌だ、やりたくない」といった負の感情を抱えていても、それを心の底でぐっと押し殺して、外に吐き出せなくなってしまいかねません。「しんどくなったら、嫌だと言っていいんだよ」「家族だけで抱えなくていいんだよ」と、彼らに繰り返し伝えてあげる必要があります。

ヤングケアラーがそれぞれの人生を主体的に生きるためには、現実に直面している困り事を取り除くだけでなく、自らの将来像を語り合える大人の存在が欠かせません。当事者と向き合う時、私は、「子ども・若者ケアラーの声を届けようプロジェクト」の発起人の一人である清﨑鈴乃さんから教わった「雑談9割、相談1割」という姿勢を心がけています。子どもたちと話していると、彼らは、普段楽しみにしていること、心惹(ひ)かれる物事について夢中で話すうちに、それまで「どうせ自分には無理」と諦め、心の奥に押し殺していた夢や希望に再び目が向くことがあります。そうした時、私はじっと耳を傾けます。「やっぱりやりたい」「やってみよう」と希望を持つ瞬間になるかもしれないからです。私たち大人が子どもを見守り、彼らの心を耕して、種の芽吹きを見守るような息の長い取り組みが、ヤングケアラーの支援として今、求められています。

ここで、私自身が最近感じていることをお伝えしたいと思います。講演などの場で、私はよく「ケアの負担軽減」という言葉を使います。でも、そう口にしている私自身が、実は、ケアを「負担」としてひとくくりに語ることに違和感を覚えます。ケアは本当に負担だけなのか……と。

講演後、参加者の感想発表に耳を傾ける齋藤氏(左から二人目)

私は今、11歳と9歳の息子を持つシングルマザーで、長男にはダウン症があります。母親として、長男のケアを考慮した生活を送っていると、大変なことばかりです。しかし、彼らなしには得られない出来事がたくさんあります。その一つ一つがかけがえのないものであり、私自身の人生観、世界観を深めてくれました。そして、今、長男のケアを負担として受けとめるだけにならなくて本当に良かったと強く思います。なぜなら、ケアを担う母親の私が、世の中の多くの人々に支えて頂いている実感があるからです。日頃、顔を合わせればあいさつを交わす近所のおじさんが、町中を一人で歩く長男を見かけた時、いつも通り声をかけてくださった、という出来事がありました。この時、地域の皆さんが、私たち家族をさりげなく気にかけて、見守ってくれているのだと分かりました。安心感を覚えるとともに、感謝の気持ちを抱かずにはいられませんでした。

超高齢社会となった現代において、人の命を支えるケアは、なくてはならない社会の営みになりました。誰一人、ケアなしに人生の幕を下ろすことはできません。だからこそ、ケアを担う人々をどれだけ支えることができるかが問われています。「ケア」を、自らの時間やエネルギーを奪うというリスクではなく、私たちの成長や自己実現につなげるメリットとして受け入れられる社会をいかにして構築していくか。そうした課題が、ヤングケアラーの問題の根っこにはあると私は思います。

(9月13日に開催された「全国教会長人権学習会」から。文責在編集部)

プロフィル

さいとう・まお 1973年、秋田県生まれ。立命館大学産業社会学部教授。家族社会学、男性介護者の介護実態および支援に関する調査、介護者支援政策の国際比較などを研究。共著に『子ども・若者ケアラーの声からはじまる ヤングケアラー支援の課題』(クリエイツかもがわ)など。