かけがえのない平和、若い人たちに守り続けてもらいたい 被爆体験証言者・蜂須賀智子氏
明けて8日、夜明けとともに、池を取り囲んでいた重症者の多くの人がそのまま息を引き取っておられました。お昼頃、私を捜しに、いとこがやってきて、両親が避難していることを知らせてくれたのです。身も心も萎(な)えてペシャンコだった私のどこに潜んでいたのか、元気と力が全身にみなぎりました。
両親の避難先に向かいました。駅から果てもなく続く田舎道、カンカン照りの中、汗みどろになって、やっとたどり着き、両親と涙の再会を果たすことができました。父は郊外にいて、けがもなく無事でした。母は、自宅の庭を掃除している時に被爆して、頭、顔、首、胸、両手、両足、服から出ているところ全てが大火傷(やけど)で、血膿(ちうみ)がべったりと覆っておりました。顔はボールのようにパンパンに膨れ上がり、目はつぶれ、私の顔を見ることはできませんでした。でも、私は生きていてくれたことがうれしくて、うれしくて、何としてもこの火傷を治してあげなくてはいけないと強く覚悟しました。
明くる日から、母の火傷との格闘が始まりました。田舎なので、野菜は十分にあって、ジャガイモ、キュウリ、トマトをすりおろし、しぼり汁を布に浸して、火傷に貼っていきました。血膿が臭いので、どこからともなく蜂のような真っ黒いハエが飛んできて、血膿にとまる。すると、すぐにそこにウジャウジャと小さなウジがわいてくるのです。痛がるのをなだめて、水できれいに洗い流し、ハエがとまらないように、うちわであおぎ続けました。
ある日のお昼頃でした。突然、ラジオから天皇陛下の終戦を告げるお言葉がありました。「戦争に負けたんだ」。体の力がスーッと抜けるのを覚えました。その夜、踏み台を電気の下に持ってきて、電気の傘に掛かっていた黒い布を外しました。当時、「灯火管制」といって、夜間空襲の目標となることを防ぐために、外に明かりが漏れないようにしていたのです。その布をそっと取りました。その瞬間、青白い光がさーっと、私の眼の中に染み込んできました。「ああー。戦争は終わったんだ」。何とも言えない安堵感(あんどかん)とうれしさが、じわじわと込み上げてきました。思うに、この一つの電球の光は、原爆の無残さ、残酷さを教えてくれた光であり、平和の尊さを教えてくれた光でもあるのです。その後もしばらく母の看病に明け暮れる日々が続きました。
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