かけがえのない平和、若い人たちに守り続けてもらいたい 被爆体験証言者・蜂須賀智子氏

当日、大聖堂のスクリーンには第二次世界大戦中の日本の状況や広島の様子が映像で紹介された

翌7日、私は、家族の安否を確かめるために、家に帰らないといけないと思いました。私は、遺体をよけながら歩き始めました。ある所では、莚(むしろ)が道路の両側に敷いてあり、重傷の人々が寝っ転がっていました。広島が大変な事になったと、周辺の町や村から自分の家族を捜しに来た人々に向かって、「助けてください」「水をください」「私は、どこの誰です」と言いながら、細い手を伸ばしてすがるようにお願いしておられました。そんな中を、私は通ったのです。

中心地に近づくと、赤茶けた電車が横転していて、人々は炭化して、真っ黒になっていました。丸い小さな頭、長方形の胴体、短い手と足の棒が付いている。体の前も後ろも分からない。人間の姿ではありませんでした。逃げ出した軍隊の馬がたくさん仰向(あおむ)けに転がっていました。皆、おなかが膨れ上がって、真っ二つに裂けて内臓が流れ出ていたため、強烈な悪臭を放っていたことを覚えています。

夕方、やっとわが家にたどり着きましたが、もちろん、見渡す限り、焼け野原でした。人一人おらず、シーンと静まりかえった音のない世界は、まるで死の世界のように感じられて、恐ろしくてその場に居ることができませんでした。

仕方なく、近くにあった浅野藩の庭園に行ってみました。そこには大きな池があるのですが、その池を囲むように重症者が二重三重に横たわっていました。水を求める声、うめき声、重症者を励ます人々の声、たくさんの声がこだまする異様な光景でした。

その中に、なんと町内の人がいっぱい避難していました。私を見つけると、走り寄って肩を抱いて、無事を喜んでくださいました。でも、両親の安否を知っている人は一人もおりませんでした。

そんな時、小さなおむすびを一つもらいました。一口食べた時に、身も心も凍りついて何の感情も起きない私の心の中を、すーっと温かいものが通り過ぎました。と、同時に、涙がどっとあふれ出て止まらなくなり、そのまま声を上げて長いこと泣きじゃくりました。

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