【日本画家・山口暁子さん】人々の心を癒し、希望を与える作品を

穏やかな筆致と暈(ぼか)しや裏彩色(うらざいしき)の技法を駆使した表現が魅力の山口暁子さん。絹に描くという現代日本画では希少な技法を用い、作品制作に取り組んでいる。愛らしい少女や可憐(かれん)な草花、昆虫や小動物を描いた絵画は鑑賞者に懐かしい記憶を呼び起こし、幻想的な世界へと誘(いざな)う。本紙連載『絵画でめぐる四季』『絵画で紡ぐ物語』で読者にもおなじみの山口さんに創作への思いを聞いた。

鑑賞者の記憶を揺り起こす

――あどけない少女や美しい花、昆虫や小動物を題材にした作品が少なくありません

私の制作スタイルは、近現代文学や伝説、自作のストーリーを柱にしてテーマを設け、それにかなったモチーフを選ぶというものです。そして創作の原点には、子ども時代の記憶があります。

東京郊外の山を切り開いた新興住宅地で育ったため、すぐそばに自然がたくさんありました。時々一人で森へ遊びに行っては、動植物や昆虫と戯(たわむ)れたものです。ヘビやトカゲに遭遇しても怖いとは思わず、テレパシーのように、言葉は通じなくとも友達と語り合っているような心地よさがありました。当時の愛読書は図鑑や動物記、昆虫記で、夢は生物学者になること。現在のテーマが“記憶を通じた他者とのつながり”なのも、その体験が影響しているに違いありません。

個展に来てくださった方から「涙が出ました」と言われることがあります。私の絵を観た方が子どもの頃に抱いた夢を思い返したり温(ぬく)もりを感じたりしてくださるのなら、これほどうれしいことはありません。

――絹に描く、希少な技法で作品制作をしています

東京藝術大学の大学院を出て初めて個展を開いたのですが、そこで自分の全てを出し尽くした感があり、その後、何を描けばよいのか分からなくなりました。日本画の公募展では和紙に岩絵の具を何度も厚塗りした作品が主流なのですが、私はその描き方が苦手で行き詰まりを感じていたのかもしれません。その頃に美術誌の編集者をしている夫に勧められたのが、日本画の伝統技法の「絹本(けんぽん)(絹絵)」でした。細くてきれいな線を描け、繊細なグラデーションや裏から微妙な着色を施せる絹本は、私の作風に合っていました。

作品『Dialogue Ⅲ』では、少女たちが“あやとり”を介して対話を重ねている

――その後、絵筆を折ろうとまで悩んだ時期があったそうですね

絹本との出会いからほどなくして、子どもが生まれました。不妊治療の末に授かった待望の子だったので喜びはありましたが、それ以上に、「この子の命は100パーセント私の責任」というプレッシャーを感じました。仕事で忙しい夫に頼ることもできず、育児の傍ら、絵画の通信講座の指導とテキスト作り、自身の創作と息をつく暇もありませんでした。疲労から不眠症になっても、締め切りがあり休めなかったのです。

体の不調に追い打ちをかけたのが、子どもが生まれた翌年の東日本大震災でした。津波の映像や家族を亡くした人々の声に接すると、苦痛や悲しみが私の中に流れ込み涙が溢(あふ)れるようになりました。画家の私に何ができるのだろうとの問いが脳裏を過(よぎ)るのですが、何も浮かばず、被災地の人たちが暮らしに困っているのにアートは役に立つのかとの疑問も湧きました。

無力さを痛感し、思うように筆を運べない時期が数年続きました。出口を見つけたい一心で足を運んだのが、2015年秋に横浜で催された現代美術家・鴻池朋子さんのワークショップ。参加者は展示物を鑑賞後、制作者になったつもりでコンセプトを感じたままに発表するというプログラムでした。

震災後、鴻池さんの作品は様変わりし、ぐにゃりとした未完成の白い陶物(すえもの)が幾つも陳列されていました。私は「視力を失い絶望の淵にいる画家が闇の中、手の感覚だけで作った人間の表情。作業を通して、彼は生きる力を取り戻していった」と述べました。

終了後にスタッフの方から、私の感想は鴻池さんのコンセプトと同じだったと聞かされ、驚くとともに、〈とにかく手を動かして、私も絵を描こう〉と思えました。そこからまた絵画と向き合えるようになったのです。

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