【カトリック神父・後藤文雄さん】難民の子供を受け入れ、育て上げた半生

カンボジアに教育支援 19の学校を建設

――学校建設を始めたのは?

メアス・ブン・ラーという名の息子がポル・ポト政権に召集された両親を捜すために、カンボジアに一度戻りました。その旅先で一人の僧侶から、村人に教育の機会をつくってほしいと嘆願されたのです。教育の大切さは私も十分に理解していますから、相談に来た彼と共に小学校を造るお手伝いをしようと決意しました。

現地の教育状況を調査した上で、校舎の建設は、帰国したラーを中心に行いました。国道沿いの村は外国からの支援が入りやすいのですが、そこから30分も離れると道はでこぼこ、学校の設備は国道沿いのものと雲泥の差です。今でも、ニッパヤシで屋根を葺(ふ)いてる校舎もあります。本当に学校を必要としているところに校舎を建てる――それが、私たちの願いでした。20年で19校を建設することができました。

忘れられない出来事があります。村人と学校建設を決めたある村でのこと。その日の夜、ラーが僕の部屋に来て、「お父さん、建設現場を見に行こう」と言うんです。23時ですよ。言われるがまま現場に向かうと、村人たちが土をもっこで担いで運んでいたのです。子供たちも一緒に、土を少しずつ抱えて運んで。そこは土地が低く、雨季になるとすぐ水浸しになるものだから、すぐに「土を盛ろう」という話になったようです。村人の熱意に感動しました。

校舎を造るお手伝いはしましたが、教育の内容には口を出しませんでした。村人や教育者自身が主体的に国の将来を考えて進めてほしかったからです。ただ、ある年、日本の学習塾を運営する会社の協力でクメール語に訳した算数の教科書を配布しました。学校を見学した時に雨が降り出したのですが、ある児童が着ていたシャツを脱いで、教科書をシャツで包んで走って行ったのです。本当に喜んでくれているのだということが伝わってきました。

――支援活動に携わり、自身にもたらされたものはありますか

カンボジアの子供たちに出会って、人生が大きく変わりました。教会で、ニコニコ顔で有り難い話をしていればいいというわけには、済まなくなっちゃったんですから(笑)。

最も大きく変わったのは、信仰心です。どんな問題についても、加害者を探すとか他を問い詰めるといったことよりも、自身の中に加害者の部分がないかと省みるようになりました。

ポル・ポト政権の圧政、賄賂や人身売買などが横行するカンボジアの状況を通して人間の業の深さを見せつけられましたが、自分の問題として考えようとしました。僕は第二次世界大戦の長岡空襲で母親や兄弟を亡くし、悲しみをどう処理したらいいか分からなかったのですが、アメリカが悪いとか、軍国主義が悪いとか、そういうことだけではないんだなとも感じるようになったのです。人間は、業の深い存在です。私の中にも、そういうものがあると認識するようになりました。だから、人を責めるのではなく、もっと謙虚に、弱い立場にある人の味方にならなければと思っています。

――現在、世界では難民が急増していますが

娘が以前してくれた、カンボジアからタイに逃れる時の話が忘れられません。タイの難民キャンプへ向かう途中、道端で若い女性が出産していたのだそうです。他の人はそれを横目に歩き続けていたと話してくれました。女性として非常につらく苦しい光景であり、娘の胸に深く刻みこまれていたのでしょう。

シリアやアフリカの難民は安全を求めて遠い国を目指しています。全ての人が健康でたどり着けるとは限りません。病気になった人や身重の女性がどんなつらい思いをして逃げているだろうかと思うと、胸が痛くなります。

難民に対して、今どれだけの日本人が関心を持っているでしょうか。命が危険にさらされ、つらい環境の中にある人たちに対して、何ができるのか――問題が大きいために、解決が難しくて目をそらしたくなりますが、だからこそ、全ての人が協力して、どうすれば援助の手を差し伸べられるかを真剣に考えなければなりません。難民問題は人類全体の問題です。

インドシナ難民の時代は僕も余力がありましたが、今は杖2本でやっと歩いている状態で、とても歯がゆいです。でも、教会の説教の時間などで難民のことを取り上げ、少しでも誰かの意識の呼び水になったらと願って話をするようにしています。このままじゃ、死にきれません。

プロフィル

ごとう・ふみお 1929年、新潟県長岡市生まれ。南山大学を卒業し、60年に司祭になる。カトリック南山教会、カトリック吉祥寺教会で主任司祭を務める。81年から94年までカンボジア難民の子供14人を里子とし、育て上げる。その後、里子の一人とカンボジアでの小学校建設の支援を始め、これまでに19校を建設した。2006年、長岡市による第10回米百俵賞、07年に第19回毎日国際交流賞を受賞した。