立正佼成会 庭野日鑛会長 6月の法話から

6月8日、青梅練成道場での「田植え祭」の後、学林生と昼食を共にして交流する庭野会長
6月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
「恕(じょ)」と「如」
儒教に「恕」という言葉があります。『大学』『小学』という書物の中に出てくる言葉で、仏教でもよく用いられる「女」と「口」を書いた「如」の字の下に「心」を記したものです。儒教、論語の中には「忠恕(ちゅうじょ)」(誠実さと思いやり)という言葉がありますが、「夫子(ふうし=孔子)の道は忠恕のみ」と言われるくらい、仏教でいうと「慈悲」に当たるような大事な言葉であります。
また、「如」には「ごとし」「そのまま」「ながら」という意味があります。儒教では「天」という言葉があり、ちょうど私たちが「仏」と言うような感じで「天」を大事にしています。「如」は「ながら」――天ながら、道ながら、あるいは自然ながら、宇宙ながらと、自然なそのままを意味する言葉だということです。宇宙や自然は絶えず創造変化している、運動している、動いていることから、「如」には「ゆく」という意味もあるのだそうです。
(6月1日)
一粒の重み
ある新聞(産経新聞)の「朝の詩(うた)」というコーナーに、『一粒の米』という詩が載っておりました。
『一粒の米』
知らなかった
米一粒から五百粒の
米粒が採れることを
ごはん茶碗一杯が
四千粒くらいなので
たった八粒の米粒で
おにぎりが一個できる
それでわかった
昔の人が棚田まで
作って育てた訳が
お米一粒一粒を
大切に食べようと思う
昔から田んぼに入って田植えをしたり、稲刈りをしたり、そうした本当に大変なことに汗を流されてきた農家の方々の気持ちがわかった。だから、お米を大切に食べよう――そんな思いの詩であります。
実際に田植えなどを体験させて頂くと、本当にそのような気持ちが湧いてまいります。学林生の皆さんが、そうした農家の人たちの大変さを、わずかですけれども体験できるのは素晴らしいことだと思って、私は田植えのときには青梅にまいっておるわけであります。
(6月15日)
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