立正佼成会 庭野日鑛会長 4月の法話から

いのちの息吹を感じて

今、春がたけなわで、桜を代表として、次々と花が咲いてきました。私たちが花や月を見るとは、どういうことなのでしょうか。月や花の何を見るのか、佐藤一斎(さとう・いっさい=江戸時代の儒学者)という方がおっしゃっていることを紹介します。

月を観(み)るのは清らかな気を観るのであって、月が円くなったり、欠けたり、晴れたり、陰ったりする形を観るのではない。花を見るのは、その生き生きとした花の心を観賞するのであって、紅や紫の色とか、香りのような外に現れたものを観るのではない。私たちは花を見る時、どうしても、色がきれいだとか、香りがするとか、そうしたことを感ずると思うのですが、そうではないとおっしゃっています。

また、花は他人に美しい花だと褒められるために咲くのではない。蜂や蝶(ちょう)に蜜を与えるために咲くのでもない。自然に木や草の精気がこりかたまって、やむにやまれず、その生命力が迸(ほとばし)り、蕾(つぼみ)を破って咲くものなのであるともおっしゃっています。

私たちは春になると花見に出かけますから、見どころの一つとして参考になるかと思います。
(4月15日)

健康であるとは

こういう言葉があるそうです。「疾病(しっぺい)は感じられるが、健康は全く感じられない」。疾病とは、体の機能に障がいがあるということです。私は今、腰というか左足の腿(もも)のあたりが痛いと感じます。だけど、健康な人は何も感じないというのです。

また、「足を忘るるは履(くつ)の適(てき)せるなり」という古い言葉があります。靴を履(は)いていても、足を忘れるぐらいちょうどいいということです。足よりも靴の方が小さければ、窮屈でしょうから、忘れることはありません。続いて、「要(こし=腰)を忘るるは帯(おび)の適せるなり」とあります。昔は和服を着ていました。ちょうどいい具合に帯をしていると、腰を忘れるほどだということです。

「疾病は感じられるが、健康は全く感じられない」と同じように、足にぴったりの靴を履いていると足を感じられない。帯がちゃんとしていれば腰も感じられない。そのように何も感じられないのが健康であって、一番いいわけです。私もそうなりたいと思っているところであります。
(4月15日)

法華経に随順した生き方

私たちは、いつも「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えています。お題目は、現代語に直すとどういう意味でしょうか。私が学んだことの一つとして、こういうことがあります。

「南無妙法蓮華経」の本来の意味は「南無真実」――真実に帰依するということです。法華経は真実の道理であり、宇宙の道理であります。

そういうお題目を唱えながら、私たちは今、法華経を所依の経典として修行させて頂いています。修行する所はどこかというと「即是道場(そくぜどうじょう)」。今私たちがいる所です。

日頃は教会や自分の家庭、職場などにいます。そこが修行の場であり、そこでご法を生かしながら生きています。それが本当にできた人は、「四六時中法華経を読む人」だと昔はよく言われていました。その人はもう年中、生活の中に法華経を取り入れて、そこで教えが説かれているということであります。
(4月15日)

人を比べない

こういう言葉を述べた方がおられます。実際にお会いした方(酒井日慈・日蓮宗第五十一代管長)です。

「花の美しさに序列はない。人間を点数で評価するのはやめよう」

大学に行く時などは点数で合格・不合格が決められます。そのように、人間を点数で評価するのをやめよう、と。そういう働きをしているのだということでした。

花には小さな菫(すみれ)の花があったり、華やかな桜が咲いたり、梅の花、菊の花などいろいろあります。そこに人の好みはあるでしょうけれども、序列はない。だから、人間を点数で評価するのはやめようじゃないかという、とても素晴らしい発想であると思います。
(4月15日)