年頭法話 立正佼成会会長 庭野日鑛
数え八十八歳の「米寿」を迎え 共に活き活きと学び、実践したい
さて私は、本年三月二十日に満八十七歳、数えで八十八歳のいわゆる「米寿(べいじゅ)」を迎えます。
まさに神仏から賜ったいのちであり、天地万物(ばんぶつ)に支えられて今日があることに心から感謝したいと思います。
人の親は父母二人ですが、祖父母、曽(そう)祖父母と三十代遡(さかのぼ)ると、その数は十億人を超えるといいます。想像もつかないほど数多くの先祖が、一度も途切れることなくいのちを繫(つな)いでくれたお陰さまで、私は、いま、ここに存在しています。
そうした悠久(ゆうきゅう)の生命の連鎖(れんさ)の中で、開祖さまは開祖さまとしての人生を歩まれて満九十二歳で入寂(にゅうじゃく)されました。母も母として満八十五歳の人生を全(まっと)うしました。その両親のもとに生(せい)を享(う)け、私は私としての人生を歩み、八十路(やそじ)の後半まで歳(とし)を重ねてきました。その意味では、一人ひとりが、いのちのバトンタッチをしているという気がしてなりません。
しかも一人ひとりには、おのおの個性があります。水泳に譬(たと)えればメドレーリレーのようなものでしょう。平泳ぎの得意な人もいれば、バタフライが得意の人もいる。それぞれがリレーのメンバーとして、与えられた一区間を精いっぱい泳ぎ続ける。そして最後は、そのバトンを次の人、つまり子や孫に託(たく)す。人生とは、そういうものではないかと受けとめています。
高齢になると何事も若い人のようにはできません。足腰も弱くなってきました。しかし頭脳の働きは、使えば使うほど向上するといわれています。
江戸後期の儒学(じゅがく)者である佐藤一斎(いっさい)先生の次のような言葉があります。「少(わか)くして学べば壮(そう)にして為すあり。壮にして学べば老いて衰(おとろ)えず。老いて学べば死して朽(く)ちず」。
青少年の頃に学べば、壮年になって何事かを為すことができる。壮年になって学べば、老いてもその力は衰えることがない。老年になってなお学ぶことをやめなければ、たとえ命が尽きようとも、その人望や精神的な遺産は朽ちることがなく、次代に受け継がれていくという意味です。
一番大事なのは、人さまのためになるように、世界が平和になるようにという誓願を立てて学んでいくことであります。
人間は、学べば星が輝いているように、心中が明るく冴(さ)えてくるといわれます。
本年も皆さまと共に、活き活きと学び、実践して、釈尊の示された菩薩道(人道)を歩んでまいりたいと願っています。