立正佼成会 庭野日鑛会長 7月の法話から
7月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
この世は観音さま同士
『法華経』に「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」があります。独立した観音信仰として、観音経だけのお経文もあるようです。観音経を「起承転結」(漢詩の絶句の構成)で表すと、このように短くまとめることができることをある本で知りました。
まず、「起承転結」の「起」ですが、「私たちの目の前で遊んでいる子どもたちは、観音さまの化身(けしん)ではないか。変装の名人である観音さまが、この世に楽しみに来た姿なのかもしれない」とあります。観音さまは三十三身に姿を現すということですから、子供さんが遊んでいるのは、観音さまがこの世に楽しみに来た姿なのかもしれないというのです。
それを受けて「承」は、「目の前で遊んでいる子どもたちは、観音さまの生まれ変わりである」と。「転」では、「その子どもたちを笑顔で楽しそうに見ている私たちも、もしかしたら観音さまの生まれ変わりかもしれない」と。そして、最後の「結」では、「楽しそうに見ている私たち一人一人が、観音さまの生まれ変わりである」と。観音経は、このように表現できるということです。
ですから、子供さんにしても、大人の方にしても、みんな観音さまであるということです。観音さま同士がこの世で今、生活をさせて頂いているということに、何かとても温かいものを感じます。
(7月1日)
自分のものの見方次第で
私たちは、つい幸だ、不幸だ、と口にしがちです。例えば、今日のお説法でお孫さんに障がいがあるということも、それを聞いただけで不幸だと思ってしまいがちです。ところが、観音経では、大人も子供も、障がいがあろうとなかろうと、全て観音さまが姿を現してくださっているんだと教えられています。
そのように受け取ると、本当に現象というものはゼロなんだ、それを私たちが勝手に、幸、不幸という見方をしてしまうのだと分かります。深く考えてみますと、ゼロのことを否定的に見ると不幸の方に向いてしまい、肯定的に見ると感謝の方に向くわけです。
実際の人生の中、また日常生活の中での幸、不幸の新たな捉え方、言うなれば広い捉え方、公正な捉え方がとても大事ではないかと思います。
(7月1日)
蓮の花が教えてくれる
蓮の花は、お釈迦さまの(お像の)台座の花です。なぜ蓮の花が台座に選ばれたのかということですが、蓮の花は、泥水の中からしか立ち上がってきません。真水であったなら、蓮は立ち上がってこない。泥がどうしても必要だということです。
泥とは、人生になぞらえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことを意味します。蓮の花は、まさに人生の中で花を咲かせることを表しており、花の中にある実が「悟り」になるわけです。つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないのだと、そこに言い表されているのです。
ただ今の体験説法も、人間が生きていく上では、生老病死といったいろいろなことがあることを表しておられました。つらいこと、「病役(びょうやく)」、そうしたことによって、私たちが魂を磨く、精進をさせて頂くということであります。
(7月15日)
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