立正佼成会 庭野日鑛会長 8月の法話から

8月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

健康に努めよう

8月を迎えて、今日も天気予報では東京都心で35度ぐらいになるということでした。こうした中でも、お互いさまに健康維持に努めて、元気に過ごしたいと思います。

健康とは「健体康心」、すなわち「健(すこ)やかな体、康(やす)き心」ということです。体が健やかであると、心も穏やかになります。夏のさなか、ぜひ健康に注意しながら過ごしていきたいものです。
(8月1日)

自然の営みを味わう

日本をはじめ中国や韓国を含めた東洋では、春、夏、秋、冬と四季があります。昔の人は、人生にこれを当てはめて“人生の四季”として、とても美しい言葉で表現しています。

春を青春(せいしゅん)、夏は朱夏(しゅか)といいます。気温が35度もあると燃えるようですから、まさに朱(あか)い夏と言ってもいいかもしれません。秋は白秋(はくしゅう)。そして、冬は玄冬(げんとう)です。玄という字は、玄(くろ=赤または黄を帯びた黒色)を表しています。

こうした表現は易学から来ているそうです。青春、朱夏、白秋、玄冬と季節に当てはめた美しい名称があるのですから、そうしたことも味わっていきたいものです。

また、本居宣長(もとおりのりなが)の有名な歌があります。

「しきしまの やまと心を ひと問はば 朝日に匂ふ 山桜花(やまざくらばな)」

日本の年配の人で知らない人はほとんどいないのではないかと思います。日本人は昔から四季折々に、美しい自然を愛(め)で歌をつくってきました。

道元禅師は、お生まれが久我家という歌人の家柄だそうで、非常に歌が上手です。私が好きな歌があります。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

ただ単に文学的に解釈するより、また、ただ美しいということだけではなく、禅的な意味合いが込められていることを捉えていかなければならない歌だそうであります。

特に、最後の「すずしかりけり」は、爽やかである、清々(せいせい)する、清々(すがすが)しいという意味です。この「すずしかりけり」は、直前の「冬雪さえて」を受けているのかと思いましたら、そうではなくて、春の花も、夏のほととぎすも、秋の月も、「すずしかりけり」にかかっており、それがこの歌の受け取り方だそうです。

すずやかなものは何かといえば、自然が本来具(そな)えている姿――禅的、仏教的にいえば、本来の面目ということです。本来のあるべき姿、生まれながらに具えている真実の姿、私たち人間に譬(たと)えればそういうことになります。大自然の本来の面目、本来のあるべき姿を詠(うた)っているわけです。

花が咲いているのにも、ほととぎすが鳴いているのにも真実の姿がある。花は無言で咲いているわけですが、私たちはそこに花の美しさを見ます。そうした美意識を日本では昔から、短歌や俳句に詠(よ)んできたのです。

今も、多くの方が歌や俳句をつくっています。四季折々の自然の美しさを表し、また自分の心も養っていくという意味合いもあります。道元禅師のこのような歌を読ませて頂きますと、私たちは大自然のおかげさまで生かされていることを味わい、そこからいろいろなことを学ぶことができるわけです。

二宮尊徳翁(おう)が、こういう歌をつくっています。

「音(こえ)もなく 香(か)もなく常に 天地(あめつち)は 書かざる経を くりかえしつつ」

自然がそのまま、いろいろなことを教えてくれているという意味です。

例えば、こぶしの花が野に咲く頃は、種まきの準備をしろと、昔から言われてきました。また、山々が紅葉してくると、稲刈りの準備はできているか、と教えているのだそうです。紅葉やこぶしの花が、そういう時期を教えてくださっており、そうしたものから人間が受け取っていく意味合いが、この「書かざる経」にはあります。自然から生きていく術(すべ)を教わりながら、私たちは生活してきたことが、この歌から分かるのです。

ですから、夏だから暑いとか、気温が高くてやりきれないと文句を言うのではなく、豊かな自然や四季の中で人生を過ごせることに深く感謝していくことが大切だと思うのです。
(8月1日)

どこでも学ぶことができる

ドイツの詩人ゲーテの言葉に「空が青いということを知るために、世界をまわってみる必要はない」とあります。

空が青いことは、外国に行かなければ分からない、知ることはできないということではありません。昔の偉大な人たち、例えば哲学者の西田幾多郎先生も、外国に行かれたことはないという話です。しかし、そうした方々は自分を見つめて、素晴らしいものを後世に残されました。

確かに外国を知れば、いろいろなことが分かるとは思います。しかし、別に外国に行かなくても、自分の今住んでいる所にいながらにして、真理を学ぶことができるということも、この言葉には込められているのです。
(8月1日)

「普回向」は菩薩の精神

私たちは、読経供養で、「願わくは此(こ)の功徳を以(もっ)て 普(あまね)く一切に及ぼし 我等(われら)と衆生と 皆共に佛道を成(じょう)ぜん」と「普回向」を唱えます。

ここに、法華経の菩薩の精神が、最も簡明に表されています。

「世の中に 何が苦しと 人(ひと)問(と)はば 御法(みのり)を知らぬ 人と答えよ」という良寛和尚の歌があります。

私たちは、ご法、法華経の真理をもう頂いています。

そして、「自分一人の解脱の問題ではない、功徳は、自分のためのものではなくて、世のため人のためのものである。願わくは、これによって全ての衆生と共に成仏をしたい」というのが普回向の意味合いです。それは、有名な宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の意味も示しているわけです。

普回向をいつも心から唱えて、世界の平和につなげていきたいと思うのです。
(8月1日)

【次ページ:「永遠の平和を目指す」「誕生偈の意味」「仏の智慧を具えた私たち」「『「大和』の精神を今に」】