立正佼成会 庭野日鑛会長 7月の法話から

尊い一度きりの人生

教育者の東井義雄先生が、「一度きりの尊い道を今歩いている」という言葉を残しておられます。今の「私」としてのいのちは、お互いさまに一度きりです。もし輪廻転生(りんねてんしょう)するとしても、全く同じ人間は生まれてきません。今、世界に80億近い人間がいますが、そんなに大勢であっても、同じ人は一人もいません。私たちは一人ひとり特別であり、それぞれが一度きりの尊い人生を今、歩んでいます。

そういう意味で、盂蘭盆会では、ご先祖さまを供養するとともに、いのちを本当によく見つめてみたいと思います。
(7月15日)

賜った人生

「賜生(しせい)」という言葉があります。「賜」には、「賜る」「賜ったもの」との意味合いがあり、賜生とは、「私たちはこのいのちを頂戴(ちょうだい)した、頂いた」という意味です。

私たちは今朝、目が覚めてから、とても数えられないくらい、何回も呼吸しています。今朝からだけでなく、これまでの夜も昼も、日曜日も祭日も、いつもずっと、生きている限りは呼吸し続けています。これは、自分がしようと思ってしているのではなく、本能的に、自然に呼吸しているわけです。

そう考えると、今、賜っているいのちが、自然に呼吸もしてくれて、私たちは生かされている――そういう気持ちが改めて湧いてきます。この胸のドキドキが止まったら人は死んでしまいます。自分で止めてしまう人もいますが、そういうもったいないことはしないように、いのちを大切にしたいものです。

生きていく上で食べ物を消化したり吸収したり、不要なものを排泄(はいせつ)してくれる内臓の働きも、血液を全身に循環させる働きも、私たちの意思でできているわけではありません。目に見えない偉大な働きによって、私たちは今、ここに生かされているのです。

自分の意志でこの世に生まれてきた人は一人もいない、といわれています。2、3歳の子供は、よく「お母さんのところに生まれてきた」と言うのだそうですが、人は皆、何か知らない力によってこの世に生み出されてくるというのが、普通であり、自然だと思います。そういう意味で、私たちのいのちは、まさに「賜ったいのち」です。賜った人生であるのです。
(7月15日)

画・茨木 祥之

行供養として教えの実践を

法華経に「無量百千の諸佛を供養し」(妙法蓮華経序品第一)という一節があります。現在のみならず、過去の仏をも供養することを通して、今、私たちが頂いているいのちに感謝し、ご先祖さまを供養することが大事であると教えられています。仏さまを供養することは、仏さまに感謝の意を表すわけですが、それは仏さまの教えの値打ちが分かるからこそ、感謝するのです。仏に供養するとは、仏に感謝することであり、仏に感謝するとは仏の値打ちが分かっているからするのです。

その供養には、「利(り)供養」「敬(きょう)供養」「行(ぎょう)供養」があります。利供養とは、財物やその他のものを捧げるというものです。敬供養とは、尊敬の念を捧げるということです、行供養とは、仏さまのみ教えを実行することです。この三つの供養の中で、仏さまの本意ということでは、行供養が一番大事だと教えて頂いています。私たちは在家仏教ですから、日ごろの生活の中で、行供養を大切にしたいと思うのです。
(7月15日)

日々怠らずに、繰り返す

東井義雄先生のお弟子さんである教育者の米田啓祐さんの『くりかえし』という詩を紹介します。

きのうも朝おきてふくをきた
さむさにふるえながら
きょうも朝おきてふくをきる
つめたさにふるえながら
めんどうだから
ずっとふくをきたままでいたいって?

きのうもやった教室そうじ
消しゴムのかすまではきあつめて
きょうもやる教室そうじ
すみの方までぞうきんでふいて
めんどうだから
一週間まとめてやりたいって?

くりかえし くりかえし
まいにちまいにちのくりかえし
おなじようなことのくりかえし
心こめてくりかえそう
楽しくなるまでくりかえそう
自分がかわるまでくりかえそう

私たちが修行していくことの大切さ、繰り返しの大切さがよく表れた詩です。これを読んでいると、本当にそうだなと思いつつ、毎日繰り返していけるような、そんな気持ちが起こってきます。このように自分の体を鼓舞して、修行を続けることが、とても大事です。ご先祖さまに捧げるという意味でも、自分の修行を常に怠らず、繰り返していくことが大切です。
(7月15日)