立正佼成会 庭野日鑛会長 5月の法話から
精進している自らを愛す
道元禅師の言葉を紹介します。
此(この)一日の身命(しんめい)は尊ぶべき身命なり、貴(とうと)ぶべき形骸なり。此(この)行持(ぎょうじ)あらん身心(しんじん)自(みずか)らも愛すべし。自らも敬うべし。
「身命」とは、いのち、生命のことです。「形骸」とは、肉体のことです。「行持」とは、仏道を怠ることなく精進することをいいます。ですから、そのような気持ちで一所懸命に精進する自分になったなら、身も心も本当に素晴らしいものであるから、自らを愛しなさい、自らを敬いなさいと道元禅師は教えられています。
私たちは、「自分を敬うなど、とんでもない」と思いがちですが、本当に正法に導かれて「わかる」から、「かわる」ところまでいって、一所懸命に精進している自らを愛すべし、敬うべしとおっしゃっているのです。これは、とても大事なことだと思います。
私たちが、仏さまをお参りするのは、「自らもそうなりたい」と思ってのことです。ですから、そのような気持ちになった自らを敬うことは、仏さまを敬うことと一つといえます。道元禅師のこの言葉には、本当に大切な心が込められています。
(5月15日)
全ての人が成仏できる
私たちは、自分のことを「凡夫(ぼんぷ)だ、凡夫だ」と思っていますが、所依の経典である「法華経」には、私たちは本来、皆が菩薩なのだと示されています。自分のことだけを心配している自己中心の人間ではなく、悩み苦しんでいる人を見たら、とてもじっとしてはいられない――そういう心を持った菩薩だと教えられているのです。
「凡夫根性」と言われるように、とかく私たちは、貪(むさぼ)りや怒り、愚かさという貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)を持っていると、仏にはなれないと思いがちです。しかし、そうした心を持っている人間であっても皆、仏になれることが法華経には説かれています。
法華経は大乗の教えです。貪り、怒り、愚かさといった心が、仏さまのような慈悲の心にも転換するのだと説くのが大乗の教えであります。「乗」とは、乗って移動できる、つまり変わることができるということであり、単に「凡夫根性」にとどまっているわけではないのです。
自分が大変な目に遭った人は、自分と同じように苦しんでいる人を見ると、「かわいそうだ」という慈悲の心、思いやりの心が芽生え、心は仏の道へ、悟りの道へと向かいます。仏さまがお悟りになられたように、皆が悟ることができるのです。
私たちは日頃、「凡夫根性」にとらわれて、仏さまのようになれないと思い込んでしまっています。そういう思い込み、執着を取り払い、仏さまがお説きくださった真理を素直に受け入れていくことによって、いろいろな悩み苦しみを取り去ることができます。私たちは誰もがそういう人間になれるのです。
(5月23日)