栄福の時代を目指して(15) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

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野党第一党の責任――国難を止める気概の必要性
このような局面において、政権の非を問うべき野党第一党の責任も大きい。ところが立憲民主党・野田佳彦代表は、「功罪を評価すべき段階ではまだない」「失点ではないかと思うこともあるが、逆に頑張っている部分もある」(12日)と述べて、内閣不信任案を提出しないと表明した。緊張感を欠いたこの言葉にも唖然とした。日中紛争をはじめ失敗ばかりが明確なこの内閣のどこを「頑張っている部分」として評価できるのだろうか。
実際には、他の野党をまとめる力がないからだと報じられているが、このような「国難」に正面から立ち向かう気概のない政党には倫理的な責任感が感じられない。
それどころか、この政党は、安保関連法に関して「違憲部分を廃止する」という主張の修正を念頭において、新たな党見解を発表する方向で調整に入ったと報道されている。安保法制定時点で与党だった公明党が「中道改革勢力の軸になる」と表明したので、連携を進めるためだろう。
枝野幸男元代表や野田代表が、制定から約10年の運用において違憲状態だったことはなかったと述べた。しかし、高市首相の発言は、台湾有事において日本が武力行使する可能性をほのめかしたわけだから、まさに違憲そのものの運用を示唆し、このために中国との紛争を招いたのだ。よって、実際には、制定から約10年目において初めて違憲状態の危惧が現実化したわけだ。
よって、今は逆に、安保法制定反対の熱気を想起し、当時の懸念がまさに正しかったことを、抗議運動を行う人々とともに訴えるべき時だろう。そうであってこそ、戦争への流れを危惧する人々が、再びこの政党に期待すると思われる。他党との連携への意欲は理解できるものの、この段階で、本来の理念を放棄して、批判すべき時に微温的な言動を行うことは、政権の問題点を問い糾(ただ)すべき野党の脆弱(ぜいじゃく)さを表しており、日本全体にとっても憂えるべきことである。
逆に言えば、野党第一党がこのような弱腰だからこそ、生活苦に悩む人々は、既成野党ではなく、威勢の良い言葉を発するポピュリズムの政党や政治家へと期待することになるのである。
政治的ドグマを超えて――コミュニティー・フォーカス
むしろ見直すべき理念は、この政党に強いリベラリズムだろう。中道連携を進めるためには、倫理性の薄いリベラリズムから、人々に希望をもたらす倫理的思想へと理念を更新することが望ましい。
ポピュリズムに対峙(たいじ)することができるのは、良識や理性、そして倫理性や精神性だ。私はかねてから徳義共生主義(コミュニタリアニズム)を唱え、それに基づく倫理的中道が今後の日本政治に望ましいと主張してきた。ここにこそ、亡国へとつながりかねない国難を乗り越える鍵がある。
今日のリベラリズムは、徹底すれば政治に価値観・世界観を持ち込めないということになってしまうので、実際には多くの思想家の場合、修正されている。現実的には、マイケル・サンデルがアメリカ民主党について指摘してきたように、福音派のような保守的宗教が集票力を持つので、政治的に右派ポピュリズムによる敗北を招きやすい。
同時に、リベラリズムは個々人の権利を中心にするので、家族や地域コミュニティー、国民(ネーション)といったさまざまなコミュニティーについて、再建策を提示することが難しい。実は、これらの「コミュニティー・アジェンダ」こそが、外国人問題を含め、「○○ファースト」(都民ファーストや日本人ファースト)を掲げるポピュリズムがもっとも攻撃する論点なのだ。
同様に、フェミニズム一般は重要な意義を持つが、結婚制度を否定的に捉えがちな急進フェミニズムの議論には、学問的に首肯し難い点も少なくない。この視角に拘束されると、家族や人口減少といった現実課題に対して、有効な処方箋を描きにくくなる。実際、この点は、右派ポピュリズムが外国人問題と並んで執拗に攻撃する論点でもある。
つまり、これらの思想がドグマ化すると、右派ポピュリズムが既存の政治、特にリベラルな政治を攻撃しやすくなり、跋扈(ばっこ)してしまう。私たちは、このような言説の縛りから解放されて、倫理性や精神性を政治に甦(よみがえ)らせ、そしてさまざまなコミュニティーの問題にフォーカスしてそれらの再建策を論じることが必要だ。
コミュニタリアニズムは、まさに「善い生き方」を中心に政治に精神性・倫理性が必要だと論じ(徳義)、さらに家族から世界へと至る複層的なコミュニティーにおける「共生」を主張する思想だ。だから、この理念によってこそ、右派ポピュリズムの攻撃を跳ね返すことができるのである。
極右ポピュリズムに抗する「平和への大結集」――倫理的中道の織りあわせ術と大同団結
もっとも、ここまで深刻な状況になると、一党一派で政治を立て直すことは難しいだろう。たとえば、従来、リベラリズムが中心だった政党が、全面的にコミュニタリアニズムへと理念を変えることは困難だろうし、他の政党も同様だろう。
このような時には、古代ギリシャの政治哲学者プラトンが「織りあわせの術」と呼んだ方法が有意義だ。リベラリズム政党は、専制権力への抵抗や自由の擁護において存在価値がある。左翼政党は、経済的格差や貧困問題に対して平等を主張する点で価値がある。また、健全な宗教政党は、政治に倫理性や精神性、公正性を実現するために価値がある。そして、石破茂前首相やその閣僚が現政権に対して批判的な発言をしているように、保守政治家にも、良識が存在しうる。これらが協力して、それぞれの美点を生かし、リベラル・コミュニタリアニズムの思想を現実の世界に反映させることはできないだろうか。
その中には左右の政党や政治家が存在するから、その結集点は、自(おの)ずと倫理的中道になるだろう。前回に書いたように、今の日本政治は「上からのポピュリズム」と「下からのポピュリズム」が連携して、戦前と同じような危険なコースを歩んでいる。もはや平時ではなく、危機時である。よって、健全な精神性や理性を持つ人々や政党が政策的な差を超えて連携し、亡国への行進を止めるべき時がきている。それは、戦争と経済破綻に対する「平和への大結集」だ。
ここで大事なのは、連合政権の考え方と同じように、各政党や党派が考え方を完全に一致させる必要はなく、それぞれは自分の理念を保持したままで、共通する目標に合意して大同団結し、目標を達成するまでの期間に限定して協力するという点だ。だから、立憲民主党が平和主義的理念を廃棄する必要はないし、他の政党も同様だ。むしろ、各政党の「強み」を生かしつつ、広範な結集を追求することが望ましい。
現在の「国難」とは、上下のポピュリズムの結合によって、極右政権のポピュリズムが日本を奈落の底へと陥らせかねないことだ。戦前には、ヨーロッパでファシズムの脅威が高まったときに「反ファシズム統一戦線」が追求されたが、ファシズムの阻止はできなかった。今は、同じような危機感を持つべき時だ。
この国難を乗り越えるためには、諸党派や人々の結集によって、高市政権を瓦解(がかい)させるか、台湾有事発言を撤回させればよい。支持者の熱狂が醒(さ)めて時間が経てば、真実が多くの人々に見えてくるだろう。
もはや、従来の党派的なこだわりを捨てて、ひとまずは、国難を止め、健全な政治を甦らせること――そのために、理性や良識を保っている人々、そして、さまざまな形の精神性を有する人々が、平和のために祈りつつ、既存の相違を超え、連携・結集していくことを願いたい。
プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)など。





