5月の庭野会長の法話から

5月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
他人(ひと)のことを悲しむ人間に
『心地観経(しんじかんぎょう)』というお経があります。その中では、「悲母(ひぼ)の恩」ということを説いています。
仏教の極意は、「慈悲」の一語にありますが、その「慈悲」という言葉も結局は「悲」の一字にあるのです。かわいいことを「愛(かな)し」と言います。愛することは悲しむこと、本当に心配することなのです。ただ今のお説法で、本当にそうしたことが言えるのではないかと思います。
そもそも「悲しむ」とは、人間の情緒の最も尊い働きの一つです。人間が他人のことを悲しめるようになるには、よほど精神が発達していなければなりません。人が自分の親、きょうだい、子どもばかりでなく、友人のこと、世の中のこと、国のことを悲しむようになってこそ、初めて文明人であり、文明国であると教えて頂きました。説法者は文明人であり、文明国に生まれて心が育っている素晴らしい方であります。
(5月1日)
唱歌や童謡を通して
日本の唱歌とか童謡には本当に素晴らしいものがたくさんあります。例えば、『夏は来(き)ぬ』という歌があります。皆さんもご承知だと思いますが、こういう歌です。
一、卯(う)の花の匂(にお)う垣根に ほととぎすはやも来(き)鳴(な)きて 忍び音(ね)もらす 夏は来ぬ
二、五月雨(さみだれ)の注(そそ)ぐ山田に 早乙女(さおとめ)が裳裾(もすそ)ぬらして 玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ
作詞は、佐佐木信綱(ささきのぶつな)という明治を代表する歌人です。五七五七七の歌(短歌)を詠む人です。これを読んでみると、「卯の花の」から始まり、ちゃんと五七五七七になっています。そして最後に、「夏は来ぬ」と付け足しただけです。これは五番まである素晴らしい歌ですが、私たちは(作詞者の)名前も知らないし、どのようにできているかも知らないで歌っていました。
こうした唱歌とか童謡がどういう内容であるかを研究している人の話も、ある月刊誌に出ていました。私はそれにも感動して、ますます興味を持ちました。唱歌とか童謡を幼いうちからしっかりと子どもに教えたり、また共々に歌ったりして、美しい日本の国をつくり上げていくことが、大きくは世界平和のためにもなるのではないかと思いまして、取り上げさせて頂いた次第であります。
(5月1日)
“自分”に気づく
「人の生(しょう)を受くるは難(かた)く、やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難(ありがた)し」――お釈迦さまの教えをしっかりと受け取ると、もう有り難い、感謝しかないのだと述べられているわけです。しかし、私たちはなかなかそれができません。
できないといっても、人間は心を持っていますから、誰でもそれはできると、みんな仏性があると、仏性そのものなのだと仏さまは教えてくださっています。仏性があるということは、仏さまのおっしゃったことはすべて分かる、そういう人間に生まれたということであります。
これはとても有り難いことです。私たちが人間として生まれてきたということは、仏になることができる、あるいはもうなっているということです。ただ、それに気づいていないのです。それが仏さまの教えの中心であります。
私たちは正法(みのり、しょうぼう)を頂いているわけですから、自分が至らないと言っていないで、仏と同じ仏性がある、自分は仏と同じなのだと気づくことが一番大事であると私は思います。
(5月15日)