立正佼成会 庭野日鑛会長 4月の法話から

4月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

日々、新鮮な気持ちで

東井義雄先生が、「今から始まる 新しい『きょう』1日」と記されています。「今から始まる 新しいきょう“ついたち”」とも読めるし、あるいは「新しいきょう“いちにち”」、とも読むことができます。

やはり、「ついたち」となると、何か新鮮な気持ちがします。毎日、毎日、新しい一日が始まるわけですけれども、私たちはなかなかそうした新鮮な気持ちでは過ごしていないと、こういう詩を読ませて頂くとそんなふうに感じます。

また、天明茂(てんみょう・しげる)という方のこういう言葉があります。

「朝といえば、ある方からこう教えられた。
『朝という字は十月十日(とつきとおか)と書く。十月十日というのは母親の胎内(たいない)に居(い)る期間であり、誕生の日でもある。朝がいつも誕生の日という新鮮な気持ちで挨拶(あいさつ)することが大切』と」

朝という字を見ると、十と日と、また十、月と書いてありますから、読みようによっては、十月十日(とつきとおか)と読めるわけです。私たちが母親の胎内にいるのは十月十日といわれており、それは誕生の日でもあります。自分が今、誕生したばかりの人間だという新鮮な気持ちで朝を迎え、その日を過ごしていくことが大事であると教えられていると思います。
(4月1日)

自らのいのちの重みを知る

『法句経(ほっくぎょう)』の中に、「人の生(しょう)を受くるは難(かた)く、やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難(ありがた)し。正法(みのり)を耳にするは難く、諸仏(みほとけ)の世に出(い)づるも有難し」とあります。

「やがて死すべきもの」のところは、違う表現で「限りある身の」となっていることもあります。私たち一人ひとりが今、いのちを享(う)けることは本当に有り難いことです。その日一日をしっかり精進させて頂こうという気持ちが大切であると、ここに教えられているのです。
(4月1日)

合掌の意味合い

私たちはお互いに、人とお会いした時にお辞儀(じぎ)をしてあいさつをします。このお辞儀ということについて、私が学んだことがあります。

「たいていの人は、お辞儀というのは『相手に敬意を表する』ことと思っているが、それは第二義である。第一義は相手を敬(けい)するということではなくて、『自らを敬す』ということである。例えば仏典にお辞儀ということを説いて、『吾(われ)を以(もっ)て汝(なんじ)を敬し、汝を以て吾を敬す』と言っている」と。

また、私から相手を敬(うやま)ってあいさつをする。そうすると、相手もまた、自分を敬ってあいさつをしてくださる。こういう関係にあるんだということです。

「つまりお辞儀をするということは『自分が相手に敬意を表すると同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表する』ことである」と言われています。

鳥や獣(けもの)はお辞儀をすることを知らない。自らお辞儀をすることの真理や価値を動物は知らない。それはまだ、精神生活が発達していないからで、人間になるとそれが初めて発達して、お互いにあいさつするということです。

さらに、「お辞儀をするということは、お互いに相(あい)敬するということであり、自ら他に挨拶をするということは、同時に他を通じて自己を敬すということだ。そこにお辞儀というものの厳粛な意義がある」と教えられています。

相手を敬うと同時に、また相手から自分も敬われているということで、お互いに敬意を表す、これがあいさつです。そして、私たちが仏さまを拝むことも同じです。私たちが仏さまを拝むその気持ちを、仏さまがまた拝んでくださっていると教えて頂いています。私たちは何か自分よりはるか遠くの尊いものを拝んでいるようですが、そういうものと私たちが一つだということが、合掌礼拝(らいはい)の中に含まれているのです。

私たちは毎日、仏さまをお参りする時に、合掌して仏さまを拝みます。手を合わせることは、仏さまと同じ尊さを持つ自分なんだ、仏さまと一つなんだということを表す方便です。

手を合わさなくてもお参りすることはできますけれども、合掌とは、敬う、敬するという姿であります。心を込めて合掌することが大切です。
(4月1日)

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