アイヌの里で「共生」を学ぶ 新宗連青年会「ユースフォーラム2023」
美しい刺しゅうをあしらったアイヌの民族衣装を身にまとい、スマホで互いの姿を撮影し合う青年たち――4月22、23の両日、北海道札幌市、白老町で開催された新日本宗教青年会連盟(新宗連青年会)の「ユースフォーラム2023」での一幕だ。4年ぶりに対面形式で開催された同フォーラムには、新宗連加盟7教団から約70人の青年が参加。『共生~違いを知り、理解し、ともに生きる~』をテーマに、アイヌの歴史や文化について理解を深めた。
22日夕、札幌市内の貸会議室に集った青年たちは、樺太アイヌ協会の楢木貴美子氏、北海道アイヌ協会の川上裕子氏によるパネルディスカッションに耳を傾けた。
楢木氏は「アイヌ民族は北海道以外にも住んでいたことを、ぜひ皆さんに知って頂きたい」と静かに語り始めた。日本最北端の地・宗谷岬(北海道稚内市)に立つと、オホーツク海の先に浮かぶ島の影が見える。サハリン、かつての南樺太が、楢木氏の先祖の故郷だ。アイヌは、道内をはじめ、千島、樺太、東北地域に暮らし、独自の文化を育んできた。
北海道アイヌが樺太に進出したのは13世紀のことだ。1875年、日本政府はロシアとの樺太千島交換条約で樺太の権益を放棄。政府は日本人漁業者とつながりの深い樺太アイヌに対し「日本へ移住しない限り、日本人としての権利を認めない」との布告を出し、道内への移住を促した。その背景には、開拓使として農業開拓や炭鉱労働に従事させる思惑があったとされる。
その後、南樺太は1905年にポーツマス条約によってロシアから日本に割譲されたが、第二次世界大戦での敗戦に伴い、51年のサンフランシスコ平和条約でその「権利、権原、請求権」を放棄した。楢木氏は、国家間の利害で故郷を追われ、北海道開拓使として過酷な環境の中を生き抜いた樺太アイヌの歴史を説明。また、北海道アイヌと樺太アイヌがそれぞれ独自の言語や文化、伝統を持つことなどを紹介した。さらに、ムックリ(口琴)の演奏も披露した。
アイヌの両親の下に生まれ育った川上氏は、日常でアイヌ語を話すのが当たり前だったことから、日本語での授業に言葉の壁を感じたり、いじめを受けたりするなどの困難の中、「大変な思いをして中学を卒業した」と明かした。周囲のアイヌの中には、そうした苦労から不登校になり、その学歴が就職にも影響して、経済的に困難な状況に置かれる人も少なくないと指摘した。その上で、「私はアイヌ語も日本語も話せる。アイヌのことを知らない人に、その文化を伝えることができると気づき、『私は幸せだ』と思えるようになりました」と強調。双方の懸け橋として、アイヌの文化や伝統を発信し続けていると語った。
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