立正佼成会 庭野日鑛会長 9月の法話から
9月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)
親の恩を知る
「父母(ふぼ)の恩(おん)の有無(うむ)厚薄(こうはく)を問(と)はない。父母ありといふことが即(そく)恩ありといふことである」という言葉があります。東洋思想を根底とした独創的な哲学者、西晋一郎という方の言葉です。
私たちは、父母の恩があったとか無かったとか、薄かったとか厚かったとかと言います。私もよく、父と別れて過ごした田舎での10年間に触れる時に、この「父母ありといふことが即恩ありといふことである」という言葉を思い出します。
西晋一郎という方は、親の心を知り、親の恩を知ること、すなわち親孝行の「孝」こそが、人間のいのちを頂いた者として、一番大切な真実であると述べられています。「孝」とは、人の心の中に潜在的にあって、誰でも感じるものですが、最近は、なかなか親孝行ができないで、いろいろな事故や事件を起こしている人たちも多いようです。人間としての根っこに、父母からいのちを頂いたということがあってこそ今があるわけですから、本当に大切なことです。
(9月1日)
親孝行は今からでも
京都のお寺の副住職をしておられた方が、『偲(しの)ぶ心が親孝行』と、亡くなった親を偲ぶことを通して、親孝行に触れておられます(故・西端春枝師=真宗大谷派淨信寺副住職、『致知』2012年11月号)。
『最近はタクシーを使うことが増えましてね。その時にはできるだけ運転手さんに話し掛けるようにしているんです』とありまして、『「あんた、お母さんいてはるの」とお聞きすると、小学校の頃に亡くなったと言うんですよ。でも具体的に何月何日だったかは覚えていないし、ある運転手さんは両親の命日を知らない。中にはお兄さんと喧嘩(けんか)して家を飛び出したから、どこのお寺さんに行けばいいのか分からないという』と。
そういう人たちに出くわすと、もう黙っていられない副住職さんですから“説教”を始めるのだそうです。
『彼らはいつも車で走っているので、お寺の前を通ったら、ちょっとでも頭を下げるようにと言うんです。それだけでもいいって』『でもね、そうすれば、自然とお母さんのことを思い出したり、心の中でお父さんに話し掛けられるようになるんです。そうやってご自身が亡くなるまで、折に触れて親のことを偲ぶことも親孝行なんですよ。そしてこのような話をしながら、私自身もまた自分の親のことを偲んでいる』ということであります。
『父は親孝行なんて、親が生きている間に満足にできているなんて思うな、と言っておりました。親が子を思う心の半分も、お返しなんぞできるものではないと。
だから昔の人はお盆の時に、墓石を洗いながらこんな詩を思い浮かべていたんです』と話されています。
ここでは『父母(ちちはは)の背を流せし如く墓洗う』という句が示されています。私の知っている限りでは、「亡き父の背を流すごと墓洗う」という句がありますけれども、おそらくこのことだと思います。
『いま生きていれば一遍でも背中を流してあげるのにな、と思う時にはもう親はいないんですね。だからせめて父母の背中を流すつもりで墓石を洗う。
こうやって、一つひとつの出来事を通じて、私たちは亡き親を偲ぶことができるんですね』と結んであります。
私もある時、お風呂に入っていたら、父が突然に入ってきました。私は早く出ようとしたんですけれども、いくらなんでもすぐに出るわけにもいかないから、父の背中を洗いました。ちょうどその時は、私が断食修行をして帰ってきて間もなくのことで、父が私の背中を洗ってくださって、「背中の艶(つや)がとてもいいな」と言われました。断食修行をしてきましたから、痩せていたのでしょうが、皮膚の色がとてもよかったということでした。その時に、父の背中を初めて流しましたが、本当にそんなことがなければ、なかなか親の背を流すことはできません。
生前にできなかったことでも、お墓を洗う時に「父母の背を流せし如く墓洗う」「亡き父の背を流すごと墓洗う」と思いを込め、親を偲ぶことも親孝行であるというのが副住職さんのお説法です。そうしたことを通して私たちは親を偲ぶことができるのです。親のおかげさまでこの世に生を得ていること、また仏さまのみ教えを頂いていること、そうした有り難いことをつくづくと感ずるわけです。
私はよく、開祖さまの教えは「親孝行」「先祖供養」、そして「菩薩行」と、三つに絞って申し上げています。その中にも「親孝行」「先祖供養」があります。私たちは親孝行を通して、いかにして自らのいのちを世のため人のために尽くす人間になれるかということをさらに確認し、精進させて頂きたいと思います。
(9月1日)