フレンドシップタワー 50周年式典を開催 「加害」を知り、傷ついた先に見た平和(動画あり)

一行は「死の行進」の出発点「0キロメートルポイント」からタワーまでの道中をスカラーと共に行進した
7641もの美しい島々が連なる群島国家・フィリピン。その中の一つ、ルソン島の南西部に位置し、マニラ湾と南シナ海に挟まれた半島がある。バターン半島だ。ここは第二次世界大戦中、旧日本軍が捕虜を収容所まで歩かせた「死の行進」が行われた場所である。戦争の傷痕が深い地に、日比友好のシンボルであるフレンドシップタワーが建立され、今年で半世紀となる。4月5日~10日、庭野光祥次代会長を名誉団長とした「フレンドシップタワー50周年特使団」(一行48人)がフィリピンを訪れ、平和への祈りを捧げる旅に出た。
慰霊と懺悔を原点に友情の塔を
スペイン、アメリカなどによる「占領の歴史」とともにあるフィリピンは、第二次世界大戦で日本の占領下に入る。「日本人が一番残酷だ」。そんな声が上がるほど、敵国捕虜のみならず、民間人をも巻き込む残虐行為を、旧日本軍は行った。それは村人の大量虐殺や女性の強姦、宗教の冒とくなどで、情け容赦なく、人々の日常を軍靴で踏みにじった。一方で、当時の日本は軍国主義のもと、上官の命令は絶対と捉えられていたため、兵士の中には拒否できずに虐殺に加担した者もいる。時代に翻弄(ほんろう)され、「殺すか殺されるか」の狭間(はざま)で生きた先人たち。フィリピンでの戦いにより日本人は約50万人以上、フィリピン人は約111万人以上(民間人は90万人)の命が失われた。
終戦後の1973年夏のこと。本会から第1回「青年の船」が就航し、フィリピンを訪れた約500人の青年は、戦争の傷痕の深さを知った。青年たちの思いを引き継いだ庭野欽司郎氏と鴨宮弘幸氏は、現地の冷ややかな眼差(まなざ)しを受けながらも、赦(ゆる)しを求め、懺悔(さんげ)を捧げるために心からの対話を行い続けた。現地の人々は徐々に心を開いていき、やがて平和を願う仲間として両国が協力し合う形で、バターンに友好のシンボルであるフレンドシップタワーが建立された。
もう二度と悲劇が繰り返されることがないよう真の友好を築いていく――そうした誓いは50年経った今も両国の青年に受け継がれている。
フレンドシップタワー50周年式典を開催
フィリピンは雨季・乾季・暑季の三つの気候に分かれ、一年を通して温暖な国として知られる。4月は暑季にあたり、気温は30度を超える日が続く。釈尊降誕の日である8日、フレンドシップタワー50周年式典の開催にあたり、一行は旧日本軍が使っていた三八式歩兵銃の上に鉄カブトが乗っている記念碑を訪れた。ここは戦史に悪名をはせる「死の行進」の出発点「0キロメートルポイント」だ。かつて、旧日本軍に捕らえられた米比軍捕虜が収容所を目指すため、飢えや渇き、熱病などであえぐ中、収容所までの83キロに及ぶ道のりを歩かされた。炎天下、栄養失調や虐待などで限界に達した捕虜が倒れていき、7万6千人いた捕虜のうち1万人以上が命を落とした。
記念碑前で平和への祈りを捧げた後、日比両国の青年ら200人が「ピースマーチ」を行い、タワーを目指した。バターンキリスト教青年財団(BCYFI)の奨学生(スカラー)は、日本の青年を日差しから守るために日傘を差してくれた。
同タワーに到着した一行は、バターンキリスト教青年会(BCYCC)のメンバーと共にフレンドシップタワー50周年式典を共催した。照りつける太陽の下、両国の代表が生花を献上。一行の団長を務めた西尾京子習学部長を導師に読経供養が行われ、慰霊の誠が捧げられた。
式典では、今年2月に65歳で急逝したBCYFI理事長のアナ・マリア・バンゾン・トアゾン氏に代わって、理事長を引き継いだ姉のジュリー・バンゾン・デ・レオン氏(71)が演説に立った。半世紀前、庭野欽司郎氏が、当時のバターン州知事だったエフレル・パスカル氏を訪ねたことについて言及。戦争の憎しみにより困難が立ちはだかる中で、実りのある対話を交わすために、「痛み、苦しみ、恐れ、そして(戦争に対する)怒り」という「心の奥底にしまい込んでいる、最も深く、最も繊細な感情」を呼び覚ます必要があったと話した。そうした心からの対話を実現できたことにより、バターンの人々は戦争の傷痕を抱えながらも受け入れ、和解により「塔の建立の物語が紡ぎ出されました」と力説。「友好の塔の物語が何年も、何世代にもわたって続いてきたことを誇りに思います」と語りかけた。
次いで、庭野光祥次代会長があいさつに立った。10年前、同タワー建立40周年の時に初めてバターンを訪れた光祥次代会長は、「死の行進」を再現した劇を観(み)て旧日本軍の残酷さにショックを受けたという。その時に「私の子どもにもその劇を観てほしい。そしてそれを観て傷ついてほしい」と思ったことを述懐した。「劇を観て本当に傷つかなければ『次の時代に戦争を起こさないようにしよう』『誰一人、加害者にも被害者にもなってはいけない』という深い決意が持てないと思ったからです」と明言。日本の多くの青年にも「自分の目で見て、傷ついて、傷ついたことにより、そうした決意を持った自分たちになることが大事」と呼びかけた。
その他、バターン州のガルシア3世知事、バガクのデルロサリオ市長、日本大使館の花田貴裕総領事などもあいさつした。
最後に、BCYCCの会長であるホセ・マーティン・バンゾン・トアゾン氏(38)が閉式のあいさつで「この塔は、ただの石や鉄ではありません。この塔は、痛みを伴う過去を乗り越えて築かれた架け橋を象徴しています」と述べた。この友情をさらに深め、平和に向けて尽力していくことを誓った。
式典は、両国の参加者が同タワーの「平和の鐘」を打ち鳴らして閉幕した。
詳しくは、タブロイド判佼成新聞8月号、9月号をご覧ください。