スペインの歴史が生んだ諸宗教対話指導者の逝去――アユソ枢機卿(海外通信・バチカン支局)
アユソ枢機卿は1952年、スペインのセビリアで生まれた。同市には、世界でも最も大きな教会の一つであるセビリア大聖堂(大司教座聖堂)があるが、その教会に付随する尖塔(せんとう)は、かつてはモスク(イスラーム寺院)の「ミナレット(尖塔)」であった。この記念碑は「ジラルダ(ヒラルダ)」(Giralda)と呼ばれ、セビリアで最も有名な観光スポットになっている。歴史的には次のような背景がある。
680年に北アフリカからムスリムがイベリア半島に侵攻を開始し、同半島の大部分を征服した。スペインのコルドバを首都として建国されたイスラーム王朝では、イスラーム世界からの技術や知識が導入され、農業、建築、医学、天文学などの分野で大きな発展が見られた。キリスト教徒は少数派として扱われたが、彼らに対する信教の自由は認められ、キリスト教とイスラームの文明が共存する、当時の欧州にとっては貴重な諸宗教対話と協力の場となった。セビリアの大司教座聖堂の鐘楼は、その二宗教文明間での対話の名残であり、アユソ枢機卿も、そうしたスペインの歴史を背景に生まれ育ったのだ。
1980年にコンボーニ宣教会に入会した青年アユソは、82年に司祭に叙階され、北アフリカからイベリア半島に侵攻したムスリムたちとは逆の道程をたどり、2002年までエジプトとスーダンで宣教活動に従事した。アラブ・イスラーム研究に関する修士号と教義神学の博士号を取得したアユソ神父は、1989年からハルツーム(スーダン)とカイロで「イスラーム学」の教鞭(きょうべん)を執った後、「ローマ教皇庁アラブ・イスラーム研究所」に籍を移し、2012年まで同研究所の所長を務めた。同年、アユソ神父は教皇ベネディクト十六世よりバチカン諸宗教対話評議会(当時)の次官に任命され、エジプト、スーダン、ケニア、エチオピア、モザンビークなどで諸宗教対話を展開していった。16年には教皇フランシスコによって司教に任命され、19年には諸宗教対話評議会議長となり、枢機卿の位に挙げられた。
ローマにある大モスクの顧問を務めるイマーム(指導者)のナデル・アッカド師は、「深い洞察力を持ち、イスラーム世界とキリスト教世界に橋を架けようと強い熱意を持っていたアユソ枢機卿は、アラビア語が堪能で、いつも流暢に話していた」と述べ、「全ての人を兄弟として扱う、非常に広いビジョンの持ち主だった」とも評価した。アズハルのタイエブ総長も教皇宛てに送った弔文の中で、アユソ枢機卿を「人類への奉仕者の顕著なる模範」と呼び、カトリックとムスリム、特にアズハルやムスリム長老評議会との関係の促進に貢献したと評価した。イタリア仏教教会(UBI)のフィリッポ・シャンナ会長は、アユソ枢機卿を「他宗教との純粋で実り豊かな対話の情熱的な追求者」だと言う。「毎年のベサク祭(釈尊の生涯を祝う仏教徒の祭日)の機会に、世界の仏教徒に宛てて送られたメッセージを、特別なる情愛を持って追憶」すると心情を明かし、「彼の遺志を継いで、私たちの対話を、より強く継続していく」と約束した。世界教会協議会(WCC)のジェリー・ピレー総幹事は27日、「アユソ枢機卿を追憶しながら、私たちは諸教会、諸宗教間対話の双方の道を歩む努力を継続していく。対話とコミュニケーションの実行が、平和、創造(自然)、すべてのいのちを保護するための唯一の道だから」との声明文を公表した。
アユソ枢機卿の遺体はセビリアに還(かえ)り、埋葬される。
(宮平宏・本紙バチカン支局長)