法燈継承30年(1) 会長就任から10年の歩み
庭野会長の法話から――仏教徒のあり方示し
簡素
法燈継承記念誌の冒頭に私は『簡素』という二文字をしたためました。簡とは統一が保たれていて煩瑣(はんさ)でないという意味で、ものごとを一貫して持続するための重要なポイントであります。素は質素に通じ、大事なものは具(そな)えているが、無駄ははぶくという意味であります。つまり今の世に生きる人間として大事なこと、必要なことは何かという本質的、根本的なことを踏まえていこうということであります。それは言い換えれば確たる目標・理想を抱いて人生を生きるということです。目標が明確になれば、そのために何をすべきかがはっきりしてきます。
(1992年1月、『年頭法話』)
無我(三つの実践)
よく「無我になれ」「我(が)を取り去れ」と言われますが、在家の仏教徒として、人間形成の基本である家庭で「我を取り去る」ための実践をすることが大切です。その実践として 1.朝のさわやかなあいさつ 2.「ハイ」という素直な返事 3.席を立ったらイスを入れ、脱いだクツはきちんとそろえる――この人間として基本的なことを心をこめて実践することが、無我の状態といえると思います。たとえ一つ一つは小さな実践であっても、周りの人によい影響を与えていくのです。
(92年7月、栃木・茨城両県のご巡教)
親孝行、先祖供養、菩薩行
親孝行と先祖供養を通し、私どもは人間の命を見つめることの大切さを教えて頂いております。(中略)そして、その尊い命を頂いた私どもが、どんな人生を歩んでいけばいいのかは、菩薩行として教えて頂いております。菩薩行をわかりやすく表現いたしますと、「人に親切にし、人のために尽くす」ということになると思います。つまり、思いやりの心です。(中略)命を深く見つめることと、人間として最も大切な思いやりの心。命と心。この二つが、私ども立正佼成会の信者、会員として大事なことであろうと受け取らせて頂いています。
(93年11月、西条教会今治道場入仏・落慶式)
無常
仏教では生まれることと死ぬことを生死(しょうじ)といいます。生と死があって初めて、いのちといえるわけです。生死のありさまは無常であり、今現在生きていることも無常の表れのひとつです。つまり、人間や宇宙に存在するあらゆるものは、すべて無常法に貫かれているというのが仏教の基本なのです。この無常法がしっかりと自覚されてまいりますと、いつ何時、何が起こるかわからないいのちを尊んで、自分の力を大いに発揮して生きていこうという精進の心が自然とわいてきます。「今が本番、きょうが本番、今年こそが本番」と一瞬一瞬が本番なのです。
(94年11月、開祖さま誕生会)
心田を耕す
本年から『心田を耕す』という目標を掲げ、共々に修行させて頂くことになりました。とかく外に向きがちな目を、自己の内側に向けていく。つまり「内省」していくことを通して、真理・法を認識していくことともいえます。苦境に陥った時、人は、周囲の環境や条件さえ変われば、問題が解決するかのように思いがちです。人間関係に苦しんでいる場合など、相手を変えることばかりを考え、なかなか自分自身を省みようとはしません。また金銭的な苦を抱えている場合、お金を工面することばかりに心を奪われ、借金を生み出した自己の内面までは見つめようとしません。しかしそれでは、環境や条件に振り回され、いつまでも同じ苦しみを繰り返していくことになります。結局、自己の内面を省みない限り、問題の本質は解決されないのです。
(98年1月、『年頭法話』)
当たり前のことに感謝
私たちはややもすると、自分の願望、欲望を叶(かな)えて頂くことが信仰だと受け止めがちですが、当たり前のことの中に感謝の気持ちを起こさせて頂けるということが、大きな功徳、御利益なのです。(中略)仏教にあります縁起の教えを通して私たちのいのちを見つめますと、もう天地一切の恩恵のもとに私たちのいのちがあるということを分からせて頂けます。生かされているということ、それはおかげさまということですが、そのおかげさまが分かる人間になる、感謝のできる人間にならせて頂く――このことが一番大きな御利益、功徳であると、今ではそのように受け取らせて頂いています。
(99年4月、福知山教会入仏・落慶式)
一乗の教え
法華経は『一乗』の教えと言われています。開祖さまはご生涯を通じて、本当にこの一乗の教えの通りに生きられ、活躍された方でした。(中略)一乗とは、一つの乗り物であり、この世の中全体が一つのいのちである、一如(いちにょ)の世界である、ということです。私たちはいま、宇宙船地球号に乗っているんだ、とよく言われますが、仏教の多くの教えからも、本当にその通りだと言えましょう。私たちは一つの乗り物に乗って、一つのいのちを生きているのです。
(99年11月、教会長指導会)
いのちの根源
私たちが人間として生まれてきたのは、私たちの意思をはるかに超えた「大いなる力」によってこの世に生を受けたというほかはないのです。その人間の意思を超えた「大いなる力」の前にひれ伏し、参じていくのが宗教の世界ですが、仮に宗教的な表現を使わずに、この宇宙を貫いている大いなる力を表現するとすれば、「いのちの根源」と言えるように思います。(中略)みんな等しく、「いのちの根源」からこの世に生まれ、いま・ここに生かされているのです。
(2000年9月、『中国佛学院名誉教授』称号授与式での記念講演)
平和な世界
仏さまの説かれる教えは無限です。私たち一人ひとりの肉体的ないのちは有限ですから、無限なるものをすべて計り知ることはできません。それは、他の宗教も同様でありましょう。それぞれの宗教を信仰する人たちが、お互い、分からないながらも、有り難い仏の前に、神の前に、本当に心からひれ伏し、帰依し、合掌礼拝(らいはい)する。そういう世界が、実は平和な世界であり、世界が一つになれるということではないでしょうか。
(01年11月、教師授与式)