内藤麻里子の文芸観察(66)

昨今の小説は派手なアイデアや、特異なキャラクターで読ませる作品が注目されがちだが、平岡陽明さんの『マイ・グレート・ファーザー』(文藝春秋)は、それらとは一線を画す。ファンタジー仕立てであるが、人生の岐路に立った男の姿を静かに、実直に描き、驚くほどじわじわと心にしみてくる。そっと自分の中に取っておきたいような小説だ。
46歳のカメラマン、時岡直志はカメラでは食えなくなり、ゴミ収集のバイトでしのぐものの、借金で首が回らなくなりつつある。妻は8年前に病死し、16歳の息子・玲司は引きこもっている。久しぶりに入った撮影の仕事で向かった伊豆・伊東で、30年前の1993年にタイムスリップ。そこで出会ったのは、今は亡き父だった。不動産業を営んでいた父は、バブルが弾(はじ)けてからは借金まみれ。自殺を疑われる自動車事故でこの年に亡くなっていた。事故の真相を聞きたい――。息子のことを心配しながらも、直志は父と競輪場で3日間を過ごすことになる。
カメラマンとして廃業を考えるまでになり、息子とコミュニケーションも取れない直志の姿を、この作家は絶望的にも、ドラマチックにも描かない。ただそこにある事実として淡々と書いているのに、切実なわびしさが伝わってくる。
また父というのがとんでもない人物だ。「調子のいい山師」で、景気がいいと大盤振る舞い、優しさを見せるが、その傍ら金儲(もう)けには抜け目なく、平気で人をはめる。酒が入ると人が変わることがある。この造形があきれるほど自然だ。直志はこの人となりを嫌うのだが、それだけでは終わらない父のささやかな美質も見えてくる。
ここに、競輪場にいる人々の生態、直志を導く不思議な声、息子とのやり取りのドタバタ、ギャンブルの興奮などが次々と絡んでくる。さらに横糸として父と息子の関係がある。父と直志、直志と息子という2組の父子関係が、気づきの多いエピソードとして物語に溶け込んでいる。そして衝撃的な両親の実態が判明する。
こちらの気を逸(そ)らさない展開が続くが、筆致はあくまで静謐(せいひつ)だ。直志は、生きることの喜怒哀楽も死によって無に帰すならば、生きることの意味はあるのかと問い、いざ今際(いまわ)のきわになった時、どういう態度を取れるのかと考えたりもする。これらの問いに対して、著者は腑(ふ)に落ちる答えをさらりと用意している。どう書かれているか、体感してみてほしい。
登場人物をステレオタイプでとらえず、幅を持たせている。それが本来の人間の姿だろう。そんなことまできっちり描いた秀作である。
プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。
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